オニールたちと別れ、シモンとユウリはロンドンの街に出た。
秋空は天高く澄みわたり、この時期にしては温かく、街を歩くには最高の天気といえた。
シモンは、我知らず、心が浮き立つのを感じた。
傍らにユウリがいる――――たったそれだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
先ほどは、女性相手なのだからもう少し譲歩すべきだったかと、ちらりと考えたが、無視することにした。
抗えなかったのだ。ユウリと二人で町を歩くという、このひとときを独占したいという希求の強さに。
そう、こんなひとときが、また戻ってきたのだ!
「シモン、嬉しそう」
「そりゃあ」
シモンは、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
ロンドンの街は、こんなにも明るかっただろうか。まるで知らない南の国に来たような明るさだ。
足が軽い。身体が浮くようだ。
シモンは思わず苦笑した。誕生日かクリスマスを迎えた子どものように浮かれている。
無理もない。ほんの一ヶ月前まで、シモンはいつ果てるともしれぬ薄暗がりの世界にいたのだ。
「お茶でも飲まないかい」
そう言ってシモンが誘ったのは、定宿にしているホテル、クラリッジスのラウンジだった。
天井からはきらびやかなシャンデリアが下がり、ピアノの生演奏が流れる優雅な空間を入り口から見て、ユウリは抵抗を示した。
「こんな服装でも、いいの?」
「ああ、問題ないよ」
大学帰りのユウリもシモンもカジュアルな服装である。
スーツを着たビジネスマンやおしゃれをした女性たちのグループといった周囲の客からは浮いているが、
シモンの際立った美貌と落ち着いた態度は、他の誰よりも華やかな空間に相応しいように見えた。
やがて運ばれてきたお茶とお菓子も絶品で、ユウリは最初の気後れなど忘れてしまった。
紅茶の香気を楽しみながら、ピアノの奏でる音色にうっとり耳を傾けた。
シモンは、そんなくつろいだ様子のユウリを見て目を細めた。
「なんだか、こうしているとセント・ラファエロの談話室を思い出さない?」
ユウリに問われて、シモンも軽く頷いた。
「確かにね」
「ケストナーが、よくピアノを弾いていたっけ。お茶もお菓子もこんなに上等じゃなかったけれど」
ユウリは手にしたお茶のカップに視線を落とした。
「なんだか懐かしい」
胸の詰まるような声だった。シモンは、苦しくなり、ふっと視線を逸らした。
だが、すぐに視線を戻し、ユウリの方に身を乗り出した。
「ちょっと気になったのだけれど」
「え?」
「さっき、君は『シモンの貴重な時間を独占できるのなんて、今くらいだ』って言ったね?」
「よく覚えているね」
感心したように頷くユウリ。
「確かに言った覚えはあるけど、それが何か……?」
シモンは、少しためらった。先ほどユウリが口にしたとき、もやもやとした不満を覚えたのだが、それをそのまま口にするのはためらわれたのだ。
「いや、何だかタイムリミットを設けられた気がして」
今はいっしょにいるけれども、いずれ進む道が分かれるのだから、今だけ仲良くしようというように聞こえたのだ。
冗談じゃない。年をとったとしても、離れる気持ちはなかった。
たとえベルジュ・グループを継いで多忙になったとしても――――
そんな思いが通じてしまったのだろうか。煙るような瞳が、ひたとシモンを見つめ返す。
「シモン……」
つぶやきのもれる、柔らかそうな唇。
シモンはかぶりを振った。
だめだ。この瞳で見つめられると心の防御壁が取り去られてしまう。
ユウリは、きゅっと下唇を噛んだ。
「そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ただ、学校も違ってしまったし、
これから先はなかなか会えなくなるんだろうな………って。だから貴重だって思ったんだ」
「遠慮しているんじゃないよね?」
「ちょっとは遠慮している。だって、シモンは僕なんかよりずっと忙しいもの」
正直に話すユウリに、シモンは苦笑を返した。
忙しいのは確かだった。この週末の予定を空けるために、平日は真夜中に疲れて倒れるまで勉強と仕事をやっつけてきた。
「君だって何かと忙しいじゃないか。さっきも―――」
そう言いさして、シモンは言葉を飲み込んだ。ふいに、胸に甦った感触があったのだ。
そうだ、前にもこんなふうに互いを立てて譲り合ったことがなかったか―――――こんなやりとりですら、思わず涙がにじみそうなほど、懐かしい。
そのくらい、自分はユウリに飢えていた。
やっと平和な日々が戻ってきたと思うと、言い争うのもバカらしくなった。
シモンは、知らずのうちに力が入ってた肩をすとんと落とした。そして、ユウリにほほえみかけた。
「うん、だから遠慮しないことにしよう。人生はひととき、ひとときが貴重だ。楽しもう」
ユウリの顔にもほほえみが浮かぶ。
「カルペ・ディエム?」
「カルペ・ディエム!」