「薄氷」より

 

 

 

その夜、眠っていた隆聖は何かに引き寄せられたかのように、突然目を覚ました。

目を開いて部屋を見ると、ねっとりと黒い闇があたりを支配する夜更けである。

自分の部屋の布団に横になったまま、一体何が自分を呼んだのかと、全身の感覚を研ぎ澄まして探る。

夜の闇はしんしんと深く、すべての音を飲み込んでしまったかのようである。

障子戸はきっちりと閉められ、何も動くものはない。

隆聖は、なおも耳をすました。

耳には聞こえない何かが、鋭敏な隆聖の感覚には響いた。

(―――来た)

息を飲んだ隆聖が布団の中で意識を集中させたとき、何者かが、廊下をとととっと渡ってくる足音が聞こえた。

足音の主は声もかけずに、いきなり隆聖の部屋の障子戸を引いた。

「隆聖、隆聖、起きてる?」

わずかに開いた障子戸の間から顔を覗かせているのは、予想の通り、ユウリだった。

息を切らし、びくびくして、何かを恐れているかのようである。顔は恐怖で固くこわばり、あせったような声も弱々しく震えていた。

「何事や?」

隆聖は、布団から半身を起こした。すると、ユウリが巣箱に戻る鳥のようにするりと部屋に飛び込んできた。

「ちょっ、お前……っ!」

「ごめん! 助けて!」

ユウリは床にしつらえられた隆聖の寝床にまっすぐに飛び込み、布団をかぶって身体に巻きつけるようにして丸まった。

「いきなり飛び込んできて何事や、いったい?」

寝込みを襲われた隆聖は不機嫌な声で問いただしたが、ユウリは布団にくるまってぶるぶると震えているばかりだった。

隆聖は、布団をはがすのを諦めて立ち上がった。開けっ放しだった障子に手をかけ、注意深く外を伺う。

庭の隅で、虫がかすかに鳴いていた。

ふつうの人間にとっては何も変わったことのない、ただの静かな夜の庭にしか見えないだろう。

しかし、隆聖の鋭い視線は、低級な妖がいくつかふらふらと漂っているのをとらえた。

どんよりとした闇が庭の木立のむこうにわだかまり、この世ならざるもののうごめきを隠しているかのようである。

この家は術者たちによって清められた「場」であり、本来なら妖が入り込む隙はそうはないはずである。

しかしこの世ならざるものを見、引き寄せてしまうユウリがいるせいか、はたまた盆という時期のせいか、いつもは見当たらないモノまで漂い始めている。

隆聖は、ため息をついた。

「難儀な体質やな」

本人はまるで自覚していないようだが、ユウリはこうして多くの雑霊をしばしば引き寄せてしまう体質がある。 

清らかなユウリの魂が汚されるような気がして、そのたびに隆聖は激しく不愉快になった。

京都に住んでいるころはまだよかったのだが、父親の仕事の都合で東京に居を移してからは、

たまに会ったときにしか穢れを祓ってやることができない。会うたびに雑霊が寄り付いたユウリを見るのは、我慢がならないことだった。

(それに―――)

隆聖は去年のことを思い出して苦々しい表情になった。

亀戸天神で突然ユウリが神隠しにあった出来事だ。

誘拐事件かと思われて大々的に捜査された事件だったが、隆聖にはすぐにユウリが「迷子」になっていることに気がついた。

あのときのように些細なきっかけで異なる世界に迷い込んでしまい、帰れなくなってしまったときに、すぐに助けてやることができないのは、辛い。

(だから、俺が鍛えたる言うたのに)

隆聖は口の中ですばやく魔を祓う言葉を唱え、ぴしゃりと障子戸を閉めた。

寝床に戻ると、ユウリが布団から顔だけ出して隆聖をじっと見つめていた。

「……行った……?」

不安げに震える声を耳にすると今まで不愉快だったこともどうでもよくなり、隆聖はユウリの頭をぽんぽんとやさしくたたいた。

「もう大丈夫や。安心しい」

「隆聖! 隆聖!」

「おわっ」

布団に入った隆聖に、ユウリが身体をぶつけるようにしがみついてきた。

寝間着の襟をぎゅっと握り、額を胸に押し付けてくるユウリの勢いに、隆聖は面食らった。

いい加減苦しいので引き剥がそうとしたが、がたがた震える様子を見て考えなおし、かわりに背中を抱いてやることにした。

片方の手を伸ばして、絹のような黒髪をなでてやる。

「大丈夫や。ここには来ぃへん。大丈夫や」

やさしく語りかける隆聖の落ち着いた声を聞いているうちに、次第にユウリの体の震えが収まり、肩の力が抜けてきた。ユウリはひくっとしゃくりあげた。

「怖かった………」

少し手を緩め、隙間を作って顔を覗き込むようにした。

「何があったんや?」

「………夜中に、トイレに行った」

「うん?」

「そしたら、泣いていたんだ」

「…………………さよか」

すべてを聞かなくても、そこまでの話だけで、なんとなく今までの経緯が読めてしまった。

ユウリのつたない説明によると、トイレから出たら、縁側に女の人が座ってしくしく泣いていたらしい。

心配になって、声をかけようと足を踏み出したら、ものすごい勢いで手をつかまれ、引きずり込まれそうになったという。

さすがにこれは人間じゃないと気付き、必死に手を振りほどいて逃げ出したのだが、逃げても逃げても追いかけてくる。

怖くて泣くこともできず、迷路のような家なので部屋に戻ることもできずに、ただひたすら走ってその「怖いもの」から逃げ出そうとした。

ユウリが寝泊りしていた離れから本宅にある隆聖の部屋までは複雑な経路があるのだが、この闇の中でよく道を間違えなかったものである。

そう隆聖が言うと、ユウリは小首をかしげた。

「道なんか、わからなかった。ただ走ってきただけ」

「どこを走って来たんだか」

「わかんない。でも、隆聖がどこにいるかはわかったよ」

そうだろうなと隆聖は思った。

ユウリの呼ぶ声が、寝ている自分を覚醒させたのだ。そして自分の下に来いと呼びかけたのを、ユウリはきちんと受け取った。

「隆聖のそばには、寄ってこないんだね」

ほっとしたようにつぶやく。ようやく緊張がとれて、力が抜けてきたようだ。

「当たり前や」

隆聖を取り巻く空気の清浄さは、ユウリにとっては繭の中にいるような心地さと安堵感を与えてくれるものだったらしい。

ややあって、緊張していた反動が来たのだろう。ユウリの瞼が下がり、抱きついたまま頭ががくっと落ちた。

隆聖は困ったように顔を少しゆがめた。

「ええか、ユウリ、この貸しは高くつくで」

「んー?」

ユウリは半眼を閉じたまま、ぼんやりと返す。

「ふん………さて、何してもらおか」

わざと意地悪そうに言うと、さすがにユウリも危機感を覚えたのだろう。びくりと身体を震わせ、目をパチパチさせて隆聖の顔を伺った。

「え、何? 何させるって?」

「とりあえず、朝餉を運んでもらおうか。それから墨摺りをしてもらおうかな、それとも庭掃除? ああそうや、廊下も雑巾がけしてもらわんと。あとは………」

あれもこれもさせようと、とても嬉しそうに列挙するのを聞いて、ユウリはぎょっとした。

有限実行が身上の隆聖のことだから、単に口先だけでからかったわけではないのである。

一体どれだけさせられるのかと想像すると、別な意味でこわいものがある。

ユウリは低くうなった。

「う………隆聖のイケズ!」

「ほー、そないなこと言うてええんか? なんやったら、今すぐ布団から出てもええんやで? 例の奴、そのあたりにまだおるかもしれんなあ」

とたん、ひしっと隆聖の寝間着を握り締め、布団にもぞもぞともぐるユウリ。

隆聖は笑って、布団からはみ出たユウリの髪をくしゃくしゃかき回した。

手を背中とおぼしきあたりに伸ばし、布団の上からポンポンといたわるように軽く叩く。

「もう休み」

「………ん………りがと」

「何やぁ? 聞こえへん」

「ありがと、隆聖」

隆聖は、暗がりの中でひっそりと笑みを浮かべた。

「ほんに。世話やな」

ほどなく、室内には規則正しい寝息が聞こえ始めた。

ユウリはことんと深い眠りに落ちたが、隆聖は闇の中で目を開き、夜の音を聞いていた。

障子の外で動く空気の流れ、屋敷を取り巻く闇の暗さ、はるか高みにある千の星々のまたたき………どうやら、もう妖は去ったようだ。

隆聖もようやく目を閉じた。

 

「これも修行や」

「うそだぁ………!」

翌日の夜、幸徳井家の風呂場で隆聖とユウリは向かい合っていた。

隆聖はすでに服を脱いで腰に手ぬぐいを巻いただけ、ユウリはTシャツに半ズボンという姿である。

隆聖は腰に手をあて、からかうような笑みを浮かべてユウリを見下ろした。

「髪を洗って背中を流せ言うてるだけや。難しいことあらへんやろ。まさか、できひんのか?」

「できるよ! できるけど、それ修行じゃないし………」

まさかこんなことを命じられるなんてと、ユウリは困ったように顔をゆがめた。

「先日の借りを返せ」と言われたので来てみたら、なんと、髪を洗って背中を流せと言う。

 

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