静かな夜には
まどろみの鎖が僕を縛り付けてしまう前に
甘い記憶が
在りし日の光を呼び覚ます
 
 
 
 
Oftin the stilly night
Ere slumber’s chain has bound me
Fond Memory brings the light
Of other days around me
 
       Thomas Moore “The light of other days”
 
 
 
 
伸ばした手が空を切る。
 はっと息を呑むのと目を開くのは、同時だった。
 意識は、あとからついてきた。
 
 ベッドに横たわったままのシモンは、あてどなく天井に向かって伸ばされた自分の手をぼんやりと見つめていたが、
やがて、のろのろと手を下ろしてまぶたを覆い、止めていた息をゆるやかに吐き出した。
 夢の中の幻に向かって手を伸ばし、目覚めると同時に失望を味わう―――そんな朝を何度迎えたことだろう。
 また、朝が来た。
 厚いカーテンをひいた寝室は薄暗いが、わずかな隙間から朝の光が差し込んでいた。
 今日も、地球は回っている。時は流れ、新しい一日を暦に刻む。自分もまた、起床していつもと変わらない一日を送るのだろう。
 シモンは瞳を開いた。
 ぼんやりと見開いた水色の瞳に、少しずつ意志の光が宿り始める。
 先ほどまで見ていた夢の世界のぬくもりを断ち切るように、重い身体をゆっくりと起こした。
 
 
 1
 
フランスを西に流れるロアール川。
流域には、中世に建てられた城館や館が数多く点在する。
 その中でも屈指の広さと豪華さを誇るベルジュ家の城の一室に、ひとりの高雅な青年が入ってきた。
シモン・ド・ベルジュである。
 バカロレアを受験するために、留学中の英国からフランスに一時帰国していたが、ようやく試験も終わり、また明日から英国に戻ることになった。
長男であるシモンとはしばらく会えなくなるので、今夜の晩餐は多忙な父親も同席し、久しぶりに家族全員が揃って、にぎやかな食事となった。
 自室に入ってすぐ、シモンは携帯電話を取り出し、メールや着信履歴をチェックした。
英国からは何も連絡がないことにほっとして、フリップを閉じた。
(明日には戻れる。何事もなく済みそうで、よかった)
 英国の学校セント・ラファエロにいる親友ユウリ・フォーダムを巡って、このところ怪しい事件が頻発していた。
数週間前には、その手の世界に精通しているらしい先輩コリン・アシュレイが来校し、ユウリから目を離すなとわざわざ警告していったほどである。
一時は命の危険に晒されたほどの事態を、シモンは決して甘く考えていたわけではない。
アシュレイの忠告も、真剣に受け止めた。
しかし、一方で自分は一介の学生にすぎないことも事実であり、フランス人にとっては人生を決定するといっても過言ではないバカロレア試験を間近に控えた受験生だった。
ユウリの身を守るために、今年は試験を受けずに見送るという選択肢も考えた。
しかし、当の本人に強く反対され、「もしバカロレアを蹴ったりしたら、本気で絶交するから」とまで宣言されてしまった。
そのときのユウリの剣幕を思い出し、シモンはくすっと小さく笑った。
本人を目の前にしては決して言えないが、本気で怒ったユウリは一生懸命で可愛いかった。
穏やかで、普段はめったに怒ることのないユウリが、自分のために怒ってくれたというのは冥利につきた。
それに、受験しないなどと言い出したら、両親はじめ、ベルジュ家グループのあちこちから抗議されることは目に見えている。
実際、シモンがパブリックスクールを卒業してフランスに帰国するのを見越して、すでにいくつかの事業に参加させる動きも始まっている。
留年するなど、許されない事態だったのだ。
結局、バカロレアを受験することを決めたのだが、そのために帰国していたこの二週間というもの、シモンの意識には常に英国にいるユウリのことが存在していた。
メールや電話でこまめに連絡を取り合い、無事であることを常に確認していた。
ようやく試験も終わり、明日には帰国すると、先ほど連絡もした。久しぶりに会える友人の顔を思い浮かべ、シモンはくつろいだほほえみを浮かべていた。
そのとき、携帯電話のメールの着信音がした。
何気なくメールを開いて文面を読んだシモンは、思わず息を呑んだ。
「なん……だって?」
『ユウリ・フォーダムが失踪した。オスカーも昨日から行方不明である』
落雷を受けたかのように、全身が震えた。
茫然とした状態から意識を取り戻し、すぐにメールを送って寄こしたルパートに電話をかけた。
情報通で知られるルパートは、おろおろしながらも、知る限りのことをシモンに説明してくれた。
詳しい状況を知らされたシモンは、激しい後悔に襲われ、歯噛みした。
(やはり、帰国するのではなかった! ユウリの側を離れるのではなかった………!)
こんなときに、遠く離れた土地にいるのが口惜しくてたまらなかった。すぐに英国に戻ろうと思っても、今からではもう遅すぎる。
シモンは、部屋を飛び出した。
父親に状況を話し、ヘリ使用の許可を得た。パイロットと連絡をとり、翌朝、夜が明けるとすぐに出発できるよう手配もした。
情報収集のためにエージェントたちと連絡をとり、ルパートからは電話で逐次状況を聞いた。
セント・ラファエロでは生徒たちが大々的な捜索を行い、ほとんど徹夜で対応に追われているという。
 その場に行きたくても、動けない自分がもどかしくてたまらなかった。
  落ち着いて座っていることもできず、シモンは部屋の中をぐるぐると歩き回った。
 珍しく落ち着きを失っている兄を見て、アンリは迷っていた。
  一体、どう声をかけたらいいのだろうか。
ユウリのことが心配で、何か情報はないかと同じ部屋に詰めていたのだが、ピリピリしている兄とずっと二人でいると、空気が重くて気詰まりでならなかった。
 アンリは、ためらいながら、控えめに声をかけてみた。
「兄さん、少しは休んでおいたらどう?」
「死んだら嫌でも休むよ」
取り付くしまもない返事を聞いて、アンリは「やれやれ」と肩をすくめ、口をつぐんだ。
そして、改めて兄の様子を伺った。普段は冷静で落ち着いた物腰の兄がこれほどまでに取り乱し、ぴりぴりとしている姿を見るのは、はじめてだった。
シモンは、急に歩みを止め、時計を見た。
 すでに時刻は真夜中をまわり、英国からの連絡も間遠くなっている。
「ちょっとその辺を歩いてくる。もう遅い。お前こそ、そろそろ休んだらどうだい?」
 シモンは、携帯電話を手にしたまま廊下に出た。
常夜灯のほのかな光に導かれ、大回廊へ足を向けた。
自らが作らせた一角獣のタピスリーが架けられている一画である。
月明かりと常夜灯のあえかな光の中、タピスリーの色調は暗く、幽玄な趣を見せていた。
タピスリーの正面で、シモンは足を止めた。
立ち尽くし、中央に描かれた一角獣に目を留める。
可憐な花々の咲き乱れる庭に囲われた一角獣は、どこか哀しげな目をしているが、
囚われの身でありながら、誇り高くしゃんと首をのばしており、取り乱している様子はない。
窮地におかれても凛としたその姿に、行方不明になっている友人の姿が重なった。
(今、君はどこにいるのだろう。どんな目にあっている?シンクレアたちに囚われたのは間違いない。だが一体、どこに?)
シモンは、下唇を強く噛み締めた。
後悔の苦い感情がせり上がる。
こんなことなら、バカロレアを受けに戻ったりするのではなかった。
絶交なんて、ユウリを失うことに比べたら百倍もましだ。
大体、「水の水晶」の本来の持ち主はアンリの母親マリアだったはずだ。
マリアの運命を肩代わりしたユウリをこんな危機に追い込んでしまったのは、ひょっとしたら自分と関わったからではないのか?
万が一、ベルジュ家のせいでユウリが傷つくことになったら―――
「………っ!」
大きく息を吸いこみ、ぶるぶると激しく頭を横に振った。
今はそんなことを考えるべきときではない。
マイナス思考に陥り、冷静な判断を下せなくなるなど冗談ではない。
(絶対に、探し出す)
 決意を新たに固め、シモンは部屋へときびすを返した。
 
 
 
 
 
 
(まるで、中身のない空っぽの箱のようだ―――今の自分は)
自らを嘲うように、シモンは顔をゆがめた。
鏡を見れば姿が映り、掌を開いてみれば手があった。
しかし、肉体も、名前も、肩書きも、すべてシモン・ド・ベルジュという空っぽの器にすぎないように思える。
人と話しているときでさえ、相手や状況に応じて自分が言うべきことを誰かが勝手にしゃべっているような気がした。
隙間を作らないよう、考える時間を作らないようにして日中は動き回ることができた。
しかし、夜になると、疲れきった彼の前に幻が現れた。
見たくないのに見てしまう幻―――――――――。
 
 夜遅く、柔らかなベッドに身を任せると、昼間の疲れが意識を眠りの淵へと連れて行く。
 すると、そこには決まってユウリの姿があった。
 花の咲き乱れる庭園に佇む姿が。
(また、あの夢だ)
 夢とわかって見る夢もある。
 いくら見るまいと思っても、夢の内容までコントロールすることはできない。
 ジーンズにパーカーというラフな私服を着たユウリは、シモンの姿を見ると嬉しそうに名を呼んだ。
「シモン」
 ふわっと花が開くようにほほえみ、シモンに向かって駆け出すユウリ。
何もないところでこけて躓き、バランスを崩して転びそうになる。
慌てて手を差し伸べ、シモンの腕につかまらせる。
「ごめん……」
 顔を少し赤らめて、恥ずかしそうにしているところなど、本物とかわらないリアリティだ。
 シモンは、自分の腕を掴むユウリの手を黙って引き剥がそうとした。
「どうしたの? 怒っている?」
 冷たい仕草を見て目を丸くするユウリに首を振ってみせ、きびすを返すシモン。
 はっと息を飲む音がした。それでも、後ろを振り向かず、未練を断ち切ろうとして足を踏み出した。
―――が、すぐに足が止まる。シモンの服の裾を、背中からユウリが掴んでいたからだ。
「もう行ってしまうの?」
 背中から聞こえる、寂しげな声。
シモンは応えず、身じろぎもしなかった。
「もう、僕を探してはくれないんだね………」
 せつない響きがどうしようもなく気になって、くるりと振り返った。
 
 
 
バサッと音を立てて、シモンは種類の束を投げつけるように机上に置いた。
「次は調査会社を変えよう。期日を守れないのでは話にならない」
ラロッシュはちらと眉を寄せた。何か言いたげな眼差しでシモンを見つめたが、言葉を飲み込んで「わかりました」とだけ言った。
「報告がなくても事業計画が成り立つと思ったら大間違いだ。正確なデータなしに交渉相手を説得できるわけがない。催促して今日中に――――」
立て板に水を流したようにすらすらとシモンの口からこぼれた言葉が、突然とぎれた。
ラロッシュはいぶかしげにシモンの顔を伺い、ぎょっとしたように目を見張った。
(―――――涙?)
白皙の顔に浮かぶ、虚をつかれた表情。
口は驚いたようにぽっかりと開き、見開かれた目からあふれた水滴がひとすじ頬に流れるのにも気づかぬ様子で、シモンは窓の外を凝視していた。
何を見ているのかと、ラロッシュも慌てて同じ方向を見たが、窓の外に広がっているのは広々とした庭だけだった。
雲間から光が差し、穏やかな午後の日差しが庭に降り注いでいるだけで、特に変わったものは見当たらない。
やがて、訪れたときと同じくらい急に、シモンは我に返った。
はっと驚いたように目に手をやり、慌てて手の指でぐいと涙をぬぐう。
ハンカチを取り出し、ラロッシュの視線を避けるようにして目にあてた。
「………すまない。先を続けよう。この件はデータが揃うのを待って、次の件だが………」
ハンカチを額にあてながら書類を捜すうつろな手の下から、すっと書類が引き抜かれた。
ラロッシュは無言で机上の書類をかき集め、シモンの手の届かないところに離した。
「ラロッシュ?」
シモンが不思議そうに尋ねると、ラロッシュは固い顔で首を横に振った。
「少し休憩しましょう。疲れておいでのようですから」
一瞬の間の後、シモンはゆるやかに息をついた。
「休みたくない。大丈夫だ」
穏やかで落ち着いた声だったが、シモンの父ギヨームの長年の友人にして腹心の部下の目と耳はごまかされなかった。                                                                                                                                         
「それです。『休みたくない』、体が休みたいと思っていても休もうとせずに、苛め抜いている」
「………………………」
口調は丁寧だが、どうやらラロッシュは静かに怒っているらしかった。
「親友のユウリくんが行方不明になったことで、あなたは相当ショックを受けているはずです。
なのに、休養もとらずに仕事を詰め込んでいらっしゃる」
「仕事をまじめにやって責められる謂れはない。手も抜いていないし」
「夜もあまり寝ていらっしゃらないでしょう?」
シモンの反論は力がなく、畳み掛けるようなラロッシュの言葉にかきけされてしまった。
「ギヨームも仕事に没頭している方が気もまぎれるかもしれないと言って容認していたから、
私も今まで何も言いませんでしたが、今日は言わせていただきます。休みなさい」
シモンは大きなため息をついた。
今度は声を張り上げて反論する。
「休んだってなんにもならない。僕が休んだらユウリが帰ってくるのか? 
僕にできることは仕事をするくらいだ。他に何もできない。悔しいけれど、何もできないんだ!」
言いながら次第に感情が高まり、シモンは両手を机に叩きつけた。
珍しく怒りをあらわにしたシモンの様子に、さすがのラロッシュも驚きを隠せなかった。
ラロッシュに当たっても仕方がない。
頭ではそう理解しても怒りを抑え切ることができず、火のような言葉を吐いた胸が火傷をしたようにじくじくと痛んだ。
シモンは気を落ち着かせようと、息を吸い込んだ。
「怒鳴ってすまない………自分の無力さを痛感しているところだよ。
だから、できることをしているだけだ。間違ってはいないだろう?」
感情をコントロールした穏やかな口調だったが、ラロッシュは静かに首を横に振った。
「では一時間だけ。一時間だけ休憩してください。鏡をごらんになれば、理由はすぐにわかります」
そう言って、書類をすべて手にして部屋を出て行ってしまった。
「ちょっと待て……!」
ひとり残されたシモンは、唖然としてラロッシュが出て行ったドアを見た。
急にすべてを取り上げられてしまい、やることが思いつかなかったが、去り際にラロッシュが言っていたことを思い出し、洗面所に行くことにした。
鏡をのぞき、シモンはぎょっとした。
ひどい顔色だった。
青ざめて翳ができた顔はひどく疲れていて、まるで病人のようにも見える。
このところ食欲が落ちていたせいか、頬がこけ始めていた。
ラロッシュが心配するのも無理はなかったのだ。
 
シモンは部屋に戻り、ソファにどさっと倒れこんだ。
ぼんやりと窓の外を見る。
雲が切れ、光の筋が天から地上に降り注ぐ―――
「………ヤコブの梯子……」
ぽつりともらした言葉。
天使が梯子で地上と天を上り下りしている様子を幻視したというヤコブのエピソードが、よくある気象現象と結びついた。
不思議なもので、そんな名前を付けられてしまうと、まるで特別な光景のように思えてくる。
天からふりそそぐ光は、さながら天からの啓示のように人々には見えたのだろうか。
「それにしても、どうして涙なんて――――あ」
ぼんやり考え始めたシモンの脳裏に、あるひとつの姿が浮かび上がった。
その花は、青くて可愛らしい、小さな花びらをもっていた。
すっと伸びた枝には葉が互い違いについており、まるで梯子のように見えることから「ヤコブの梯子」という名前が付けられたという。
『日本名は、たしかハナシノブと言ったかな』
そう教えてくれた、涼やかな声の調子まで鮮やかに脳裏に甦った。
黒髪の友人の楚々としたたたずまい。凛とした眼差し。
植物のことを語る彼の声を聞くのが、好きだった。
傍らにいるだけでよかった。
目が合うと嬉しそうにほほえんでくれる暖かさに、ほっとさせられた。
『そう、花言葉はね――――』
シモンはソファから立ち上がった。
窓にすがりつき、天からの光に目をこらす。
熱い思いが胸にじわじわとひろがり、こらえきれなくなって嗚咽が一度だけこぼれた。
涙も、思いも、向かう人物はただひとりだけ。
「ユウリ――――」
 
 
 

 

「ユウリを信じよう………か」
 ぽつりと言葉を足元に落とし、シモンは、うつむいていた顔を上げた。
 いつもの夢、いつもの庭だった。
改めてあたりを見回せば、今まであまり目にも留めていなかった庭の様子が目に入ってきた。
人の手が入っていることを感じさせない英国風のナチュラル・ガーデン。
ぽってりと落ちそうな花をつけたバラ、紫のヘリオトロープ、雪のようなホワイトプリンセス、水辺には涼しげな緑の枝を揺らす柳もあった。
シモンは、周りを見ながら、ゆっくりと歩を進めた。
時折、うねるような風が吹き抜ける。
空は曇天。厚く黒い雲と真珠のように白い雲が入り混じり、まるで光と闇が交じり合った混沌を思わせた。
 ざわざわと木々が揺れ、花びらがはらはらと風に散っていく。
 奇妙な庭には、鳥の姿も声もない。
 生きているのは、植物以外はシモンだけだった。
 シモンは目を庭のあちこちに目を凝らした。
(やはり、いない―――)
 今日は、庭のどこにもユウリの姿はなかったが、なんとなくそんな予感はしていた。
 焦って探し回ったりはせず、歩みを進めた。
(このまま、もう二度と会えなくなってしまうのだろうか)
不安にかられ、足を止める。
だが、パスカルの言葉を思い出して、また歩き出した。
 
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