(まるで、中身のない空っぽの箱のようだ―――今の自分は)
自らを嘲うように、シモンは顔をゆがめた。
鏡を見れば姿が映り、掌を開いてみれば手があった。
しかし、肉体も、名前も、肩書きも、すべてシモン・ド・ベルジュという空っぽの器にすぎないように思える。
人と話しているときでさえ、相手や状況に応じて自分が言うべきことを誰かが勝手にしゃべっているような気がした。
隙間を作らないよう、考える時間を作らないようにして日中は動き回ることができた。
しかし、夜になると、疲れきった彼の前に幻が現れた。
見たくないのに見てしまう幻―――――――――。
夜遅く、柔らかなベッドに身を任せると、昼間の疲れが意識を眠りの淵へと連れて行く。
すると、そこには決まってユウリの姿があった。
花の咲き乱れる庭園に佇む姿が。
(また、あの夢だ)
夢とわかって見る夢もある。
いくら見るまいと思っても、夢の内容までコントロールすることはできない。
ジーンズにパーカーというラフな私服を着たユウリは、シモンの姿を見ると嬉しそうに名を呼んだ。
「シモン」
ふわっと花が開くようにほほえみ、シモンに向かって駆け出すユウリ。
何もないところでこけて躓き、バランスを崩して転びそうになる。
慌てて手を差し伸べ、シモンの腕につかまらせる。
「ごめん……」
顔を少し赤らめて、恥ずかしそうにしているところなど、本物とかわらないリアリティだ。
シモンは、自分の腕を掴むユウリの手を黙って引き剥がそうとした。
「どうしたの? 怒っている?」
冷たい仕草を見て目を丸くするユウリに首を振ってみせ、きびすを返すシモン。
はっと息を飲む音がした。それでも、後ろを振り向かず、未練を断ち切ろうとして足を踏み出した。
―――が、すぐに足が止まる。シモンの服の裾を、背中からユウリが掴んでいたからだ。
「もう行ってしまうの?」
背中から聞こえる、寂しげな声。
シモンは応えず、身じろぎもしなかった。
「もう、僕を探してはくれないんだね………」
せつない響きがどうしようもなく気になって、くるりと振り返った。
バサッと音を立てて、シモンは種類の束を投げつけるように机上に置いた。「次は調査会社を変えよう。期日を守れないのでは話にならない」ラロッシュはちらと眉を寄せた。何か言いたげな眼差しでシモンを見つめたが、言葉を飲み込んで「わかりました」とだけ言った。「報告がなくても事業計画が成り立つと思ったら大間違いだ。正確なデータなしに交渉相手を説得できるわけがない。催促して今日中に――――」立て板に水を流したようにすらすらとシモンの口からこぼれた言葉が、突然とぎれた。ラロッシュはいぶかしげにシモンの顔を伺い、ぎょっとしたように目を見張った。(―――――涙?)白皙の顔に浮かぶ、虚をつかれた表情。口は驚いたようにぽっかりと開き、見開かれた目からあふれた水滴がひとすじ頬に流れるのにも気づかぬ様子で、シモンは窓の外を凝視していた。何を見ているのかと、ラロッシュも慌てて同じ方向を見たが、窓の外に広がっているのは広々とした庭だけだった。雲間から光が差し、穏やかな午後の日差しが庭に降り注いでいるだけで、特に変わったものは見当たらない。やがて、訪れたときと同じくらい急に、シモンは我に返った。はっと驚いたように目に手をやり、慌てて手の指でぐいと涙をぬぐう。ハンカチを取り出し、ラロッシュの視線を避けるようにして目にあてた。「………すまない。先を続けよう。この件はデータが揃うのを待って、次の件だが………」ハンカチを額にあてながら書類を捜すうつろな手の下から、すっと書類が引き抜かれた。ラロッシュは無言で机上の書類をかき集め、シモンの手の届かないところに離した。「ラロッシュ?」シモンが不思議そうに尋ねると、ラロッシュは固い顔で首を横に振った。「少し休憩しましょう。疲れておいでのようですから」一瞬の間の後、シモンはゆるやかに息をついた。「休みたくない。大丈夫だ」穏やかで落ち着いた声だったが、シモンの父ギヨームの長年の友人にして腹心の部下の目と耳はごまかされなかった。「それです。『休みたくない』、体が休みたいと思っていても休もうとせずに、苛め抜いている」「………………………」口調は丁寧だが、どうやらラロッシュは静かに怒っているらしかった。「親友のユウリくんが行方不明になったことで、あなたは相当ショックを受けているはずです。なのに、休養もとらずに仕事を詰め込んでいらっしゃる」「仕事をまじめにやって責められる謂れはない。手も抜いていないし」「夜もあまり寝ていらっしゃらないでしょう?」シモンの反論は力がなく、畳み掛けるようなラロッシュの言葉にかきけされてしまった。「ギヨームも仕事に没頭している方が気もまぎれるかもしれないと言って容認していたから、私も今まで何も言いませんでしたが、今日は言わせていただきます。休みなさい」シモンは大きなため息をついた。今度は声を張り上げて反論する。「休んだってなんにもならない。僕が休んだらユウリが帰ってくるのか?僕にできることは仕事をするくらいだ。他に何もできない。悔しいけれど、何もできないんだ!」言いながら次第に感情が高まり、シモンは両手を机に叩きつけた。珍しく怒りをあらわにしたシモンの様子に、さすがのラロッシュも驚きを隠せなかった。ラロッシュに当たっても仕方がない。頭ではそう理解しても怒りを抑え切ることができず、火のような言葉を吐いた胸が火傷をしたようにじくじくと痛んだ。シモンは気を落ち着かせようと、息を吸い込んだ。「怒鳴ってすまない………自分の無力さを痛感しているところだよ。だから、できることをしているだけだ。間違ってはいないだろう?」感情をコントロールした穏やかな口調だったが、ラロッシュは静かに首を横に振った。「では一時間だけ。一時間だけ休憩してください。鏡をごらんになれば、理由はすぐにわかります」そう言って、書類をすべて手にして部屋を出て行ってしまった。「ちょっと待て……!」ひとり残されたシモンは、唖然としてラロッシュが出て行ったドアを見た。急にすべてを取り上げられてしまい、やることが思いつかなかったが、去り際にラロッシュが言っていたことを思い出し、洗面所に行くことにした。鏡をのぞき、シモンはぎょっとした。ひどい顔色だった。青ざめて翳ができた顔はひどく疲れていて、まるで病人のようにも見える。このところ食欲が落ちていたせいか、頬がこけ始めていた。ラロッシュが心配するのも無理はなかったのだ。シモンは部屋に戻り、ソファにどさっと倒れこんだ。ぼんやりと窓の外を見る。雲が切れ、光の筋が天から地上に降り注ぐ―――「………ヤコブの梯子……」ぽつりともらした言葉。天使が梯子で地上と天を上り下りしている様子を幻視したというヤコブのエピソードが、よくある気象現象と結びついた。不思議なもので、そんな名前を付けられてしまうと、まるで特別な光景のように思えてくる。天からふりそそぐ光は、さながら天からの啓示のように人々には見えたのだろうか。「それにしても、どうして涙なんて――――あ」ぼんやり考え始めたシモンの脳裏に、あるひとつの姿が浮かび上がった。その花は、青くて可愛らしい、小さな花びらをもっていた。すっと伸びた枝には葉が互い違いについており、まるで梯子のように見えることから「ヤコブの梯子」という名前が付けられたという。『日本名は、たしかハナシノブと言ったかな』そう教えてくれた、涼やかな声の調子まで鮮やかに脳裏に甦った。黒髪の友人の楚々としたたたずまい。凛とした眼差し。植物のことを語る彼の声を聞くのが、好きだった。傍らにいるだけでよかった。目が合うと嬉しそうにほほえんでくれる暖かさに、ほっとさせられた。『そう、花言葉はね――――』シモンはソファから立ち上がった。窓にすがりつき、天からの光に目をこらす。熱い思いが胸にじわじわとひろがり、こらえきれなくなって嗚咽が一度だけこぼれた。涙も、思いも、向かう人物はただひとりだけ。「ユウリ――――」
「ユウリを信じよう………か」
ぽつりと言葉を足元に落とし、シモンは、うつむいていた顔を上げた。
いつもの夢、いつもの庭だった。
改めてあたりを見回せば、今まであまり目にも留めていなかった庭の様子が目に入ってきた。
人の手が入っていることを感じさせない英国風のナチュラル・ガーデン。
ぽってりと落ちそうな花をつけたバラ、紫のヘリオトロープ、雪のようなホワイトプリンセス、水辺には涼しげな緑の枝を揺らす柳もあった。
シモンは、周りを見ながら、ゆっくりと歩を進めた。
時折、うねるような風が吹き抜ける。
空は曇天。厚く黒い雲と真珠のように白い雲が入り混じり、まるで光と闇が交じり合った混沌を思わせた。
ざわざわと木々が揺れ、花びらがはらはらと風に散っていく。
奇妙な庭には、鳥の姿も声もない。
生きているのは、植物以外はシモンだけだった。
シモンは目を庭のあちこちに目を凝らした。
(やはり、いない―――)
今日は、庭のどこにもユウリの姿はなかったが、なんとなくそんな予感はしていた。
焦って探し回ったりはせず、歩みを進めた。
(このまま、もう二度と会えなくなってしまうのだろうか)
不安にかられ、足を止める。
だが、パスカルの言葉を思い出して、また歩き出した。