初めまして、ひなたと申します。
冬コミに発刊する『シャムロックの祈り(後編)』の宣伝に参りました。

以前「好きなもの」というブログで二次創作を投稿していたのですが、アクセスするパスワードを小説の資料ごと紛失してしまうという管理人としてあるまじき失態をおかしてしまい、生活環境の変化と重なってHP制作に手が回らなくなってしまいました。
せめて『シャムロックの祈り』だけは完成させたいと2008年夏コミにて前編を発刊し、今年の冬ようやく後編が完成したしだいです。

この機会をくださったモリエ様のご厚意に深く感謝します。
また前編よりずっと気にかけてくださった読者様、遅くなってすみません、本当にありがとうございました。


『シャムロックの祈り(後編)』

   文庫本/総ページ数292P
   掲載作品/春祭に向けて,魔の棲む鏡,シャムロックの見せた夢


 〔あらすじ〕
 第三学年に進級したヒュー・アダムスは、一級下のマイケル・サンダースとの交際に前向きになろうとしていたが、
 その矢先にユウリの置かれている状況を知り、そちらの問題にかかりっきりになってしまう。
 ヒューの想いを自分に向けたいマイケルは、一つの問いをヒューに投げかけた。

 ※「ハムレット」を題材にユウリとシモンのからみを書きつつ、
  ヒュー×マイケルを主人公として物語を進めたいと思った結果、
  英国妖異譚には出てこないキャラクターを頻繁に登場させてしまいました。
  ご了承のほどよろしくお願いします。

 

「春祭に向けて」 ためし読み

 

     序

 

昼夜の長さが逆転してから、ひと月半。木枯らしが秋の終わりを告げる十一月の初旬。

天蓋のように空を覆うダブグレイの雲の下を、飛び交う鴉の鳴く声が陰々と響き渡ると、雲脚はスルスルと伸び、ほろほろと解けて、地上を薄煙の中に閉じ込めた。
大地を舐める雲に呑まれたセント・ラファエロでは、夜の帳が下りてもなお雨脚は激しくなるばかり。夜半には滝と見紛う豪雨となって、寮の本館に住まう生徒の安眠を妨げる。

代々修繕を繰り返し、中世の趣向をそのまま現代へと引き継いだ木造建築の寮――。

そう評すれば聞こえはいいしありがたみもわくが、こちらで寝起きする身の上から言わせてもらえるのなら「強度に不安の残る時代遅れの古い建物」でしかない。入寮してまだ日の浅い第一学年などは初めて過ごす嵐の夜にすっかり怯えてしまい、いつもの騒々しさも鳴りを潜め、忍び寄る老朽の影から目を背けるかのごとく毛布に包まり、ヒソヒソと話を交わすのみ。

いわく「あのガタガタいってる窓、もし割れたら僕らどこで寝ることになると思う?」とか「家鳴りを心配しなよ。さっきからキシキシ、キシキシ……まさか、倒壊寸前とか言わないよね」とか「なあ。湖が決水した場合の避難場所って、どこになるか、聞いてない…よな」とか。

声に幾ばくかの興奮が入りまじるのは、無鉄砲さが売りの若さゆえかもしれない。


一方、本館と渡り廊下で繋がる第四学年の住まう新館は、内装・外装ともに現代技術が駆使されたモダンな造りとなっていて、全室一人部屋のエアコン完備。防音もバッチリ施してある。

これらの仕様は、大学に提出する試験で最良の成績を修めることを生活基盤に置く彼らへの配慮であり、おかげで窓を叩きつける暴風雨の音も、まるで眠りに誘う子守唄のような、快適な静けさに満ちていた。住み心地の良さで比較するなら、本館とはまさに雲泥の差だ。
だが、それで寝てしまっては本末転倒というもの。しかもこれだけの御膳立てをされて結果が出せないとあれば、それはひとえに自らの力量不足でしかなく……つまり、この環境は自分との戦いでどれだけの成果を挙げられるかが試される『修練の場』とも言える。よって第三学年以下の生徒らが消灯を迎えた今この時も、彼らは机に向かい、とくに受験まであと半年とせまる最上級生は、いよいよ集中力に磨きをかけて勉学に励んでいた。


そんな日常となんら代わり映えのない夜に、密やかに始まるものがあった。


場所は、ヴィクトリア寮最上階の角部屋。機能性重視のスッキリとした広い応接間。
そこにはこの寮の幹部生が誰一人欠けることなく集まり、皆一様に神妙な面持ちで、この部屋の主人である学園の総長兼筆頭代表のリチャード・エリオットから接待を受けていた。

ここに至るきっかけは、午後に行われた生徒自治会の定例会議にある。
その会議で来年開催予定の春祭が話し合われ、実行委員の選抜が各寮に通達されたのだ。
そこでエリオットは「準備期間は長いほど好ましい」と、急遽仲間に招集をかけたのである。

「さて。目指すは最優秀賞だが、各自候補は考えてきたか?」

直線的な動きで居並ぶメンバーに林檎酒を振舞ったエリオットは、速やかに席につくとおもむろに議題を述べた。その朗々とした声は、深夜とは思えないほど気力に満ち溢れている。
長身の逞しい体躯。短く刈り上げた金髪はやや強面ぎみな彼の精悍さを強調し、軍人一家の長男に相応しい風格に、指導者としての覇気も加わり、この場の空気を引きしめていた。だが長椅子に座る面々へと向ける彼の眼差しは、闊達な人となりを物語るように温かい。

トップの指名を待つような緊張感の漂うなか、かすかな苦笑が空気を震わせた。

「賞の獲得を狙うのなら、演劇が妥当だと思うよ?」

クスクスと。昼間であれば生活音で掻き消えてしまうだろう小さな笑い声とともにそう提案したのは、エリオットの真正面に座るパトリック・ステュアートだ。指先まで神経の行き届いた角度でワイングラスに手を伸ばすと、ステムに長い指を絡めてゆっくりと持ち上げる。

年齢不詳の甘い顔立ちに浮かぶ、妖しい微笑。エリオットが自由な討論を望んでいると察してというより、いつもの気まぐれのようだ。グラスを傾け、水平に、円を描くようにゆっくりと回して琥珀色の発泡酒を揺り動かすと、高い鷲鼻を近づける。微細な気泡とともに立ち上る林檎のフルーティーな香りを楽しんでから、優しくキスを交わすようにグラスの縁に口づける。
その所作は堂に入っているのにどこかエキセントリックで、そんな彼特有の雰囲気に呑まれた一同はつい彼を凝視するも、当人は至ってマイペースにそれを口に含んで風味ごと味わう。

貴族か、道化師か……。彼に対する周囲の評価はいつも二分される。
とりあえず、ステュアートによりこの場が社交界めいた雰囲気に包まれると会談が始まった。

「僕も同感。衆目を集める人材にも恵まれていることだしね」

注がれた林檎酒の半分を呑んで唇を離し、縁についた琥珀の雫をぺろりと舐め取り相槌を打つのは、庶民出身でありながら有閑階級の気風が似合うカーティスだ。二年前の階代表時代にステュアートから突然指名されたにもかかわらず、彼の補佐を務めあげた強者である。そのことは仲間内での信頼を厚くし、ステュアートへの免疫がある数少ない緩衝材としていろいろな場面で重宝されてきた。現に今も、カーティスの席はステュアートの隣になっている。

「ラグビーの英雄“マーク・テイラー”に、社交界の華で学園内でも引く手数多のフランスの貴公子“シモン・ド・ベルジュ”か。色気づいた女子の黄色い悲鳴が今から聞こえてきそうだよな。客寄せに彼らの握手会でも開くか」

間を置かずに呂律が回っていないぼやき声が扉側で上がった。投げやり気味な声の主はどうやらサムのようで、小柄な外見にはそぐわない豪快な呑みっぷりを披露していた。空いたグラスを惰性でテーブルに置くと、かったるそうに両手を後頭部に回してだらしなく背もたれに寄りかかる。その様はまさにやけ酒を呷るフられ男。アルコールの度数はビールよりも軽いはずなのだが、すでに顔面は耳まで赤い。酔いの回りが早い点は見た目通りのようだ。

ついでに酔っ払いと道化師に挟まれてしまったトーマスは……と目を向けてみると、居心地が悪そうに身体を縮めて、ちびりちびりとワインを舐めていた。なんとも災難なことである。

(何があった、サム)

女子絡みの行事はとくに率先して取り組む、自他ともに認める女好き。そんなサムの無気力ぶりにエリオットは軽く驚いて彼を見やり、ひどく遠い眼差しとぶつかって目を瞠る。

(サムに限ってよもや嗜好転換を……いや、それはないな。甲斐性なしのレッテルを貼られて彼女にフられた説の方がまだありえる)

赤ら顔のやさぐれ男と化した仲間に、これまでの仕事配分を振り返り分析したエリオットは「個人の自由時間を奪いすぎたか」と自らの采配ミスを認め、反省する。――が、心中で彼に詫びを入れたところで、ふと前回の春祭とその後の顛末が脳裏をよぎった。

寮にいてすら「遠隔操作機能が施されたマイクロチップが脳に内蔵されているのでは」と疑念を抱くほど実家の弟妹に振り回されているサムの――親しみやすさ…とあえていうが…は、初対面の女子が相手でも十二分に発揮されたようで、女子高ではマスコット的な存在として人気を博していた。しかしそれが曲者で、彼女を求めて女子に自己アピールするにもかかわらず他の男子との橋渡し役に回され、気づけば『恋のキューピッド』として名が売れていたのだ。
仲介してくっついたカップルは数知れず、届く手紙はラブレターではなく恋のお悩み相談、もしくは感謝状。最近は仲介依頼もあるらしい。そういえば今日も何通か届いていたはずだ。

 ――――それらすべて、先程サムが名を挙げた彼らへのお取次依頼だとしたら……。

(無気力になるのも当然だな)

面倒見が良すぎて今の立場に追いやられてしまったサムだが、彼の望みは情報通になることでもパーティーの企画運用スキルを磨くことでもなく、まだ見ぬ恋人と早く一緒になりたいというごく個人的なものだ。活動内容を鑑みれば、誰もが首を傾げるほどささやかな願いだろう。

人脈は社会で活躍するための貴重な財産であり、あれだけ積極的に女が欲しいと主張しているにもかかわらず標的にすら警戒心を与えない資質と、彼らの願いを叶えてしまえる幅広い伝手やそれらを駆使する手腕は、生徒の頂点に立つエリオットが一目置くほどの素晴らしい長所なのだが、「彼女ホシ〜」と嘆く彼にその点を称賛しても嫌味としか受け取られなさそうだ。

ちなみにサムは一部の男性陣に異常にモテる。本人が恋愛に夢見がちで向けられる感情にも鈍いために発展こそしないが、構い倒されて制服ごとヨレヨレだなんてことは一度や二度の話ではない。それだけにサムの嗜好転換だけは勘弁して欲しかった。十中八九、血を見るからだ。

「妬くのはかまわないが、彼らの存在は切り札ではなく諸刃の剣と心しろよ。活かせなければ、注目されるだけに最下位となりかねない。我ら幹部生の責任は重大だ」

エリオットが注意を喚起すると、難しい顔つきの数名が「ウーン」と唸った。

「演目の選択は慎重に、か。前向きなのは結構だが、本気で最優秀賞を狙うのなら演劇は避けるべき項目だろう。シェイクスピア寮との直接対決は、どう考えてもこちらが不利だ」
「そうそう。こっちはズブの素人、あっちは芸術家集団。舞台作りのセンスもあれば、イイ役者も勢ぞろいのよりどりみどり」
「なによりあの英国を代表する大女優“イザベル・オニール”の息子にして、自身も舞台で大活躍のアーサー・オニールがいる!」

お手上げだと両手を広げて肩を上下させた慎重派のフレッドに、同意者が数名。

この地に語り継がれる物語の英雄と同じ名前を戴く彼の芸能人は、母親譲りの炎のような赤い髪をまとう華やかなオーラの持ち主だ。寮も学年も異なるためすれ違うのも稀だが、姿を目にすれば必ずと言っていいほどその時のことが仲間内で話題に上る。見られることを宿命づけられ、魅せ方を取得している芸能界のサラブレッドは、どこにいてもとかく目を惹き、人々の印象に残るのだ。その存在感は有名俳優クラスだろう。

名声は伊達ではないのだぞと渋る反対派に、怖気づくのも無理はないかとエリオットは他の面子を見回してから、提案者に目を留める。ステュアートは無表情にジィっと、彼らを傾けたグラス越しに眺めていた。微かに舌を刺激する炭酸が心地よい林檎酒で喉を潤すと、音を立てず指先に余韻を残すほど上品に、空になったワイングラスを置いた。

「アーサー・オニールか。たしかに彼は素晴らしい逸材だね。舞台上で増す華やかなオーラはまさに天性の役者ならではのもの。けれどオーラで勝負をするのなら、我が寮に在籍するシモン・ド・ベルジュの光輝は、その彼をも凌ぐと僕は思うのだけれど……」

どうだいと少し垂れ気味の眦に艶を刷いて流し目を向けたステュアートに、矛先にいたその数名はヒッと喉を鳴らした。視線から逃れるように仲間と顔を見合わせる。

「た、たしかにベルジュなら、オニールと並んでも遜色ないな」
「ああ。華というよりは、眩しくて近寄りがたい高貴な輝きだが、演じる役によっては強みだ。あの物腰、麗しの貴公子ぶりは他を抜きん出ている。追随を許さないくらいだ。断トツだ」
「うんうん。……なんだっけ。そう、光輪。頭上に浮かんでそう。神様役にはもってこい」
「いやいや、やっぱり宛がうなら主役だろう。王様とか、英雄とか」

恐怖から喉の奥に貼りついた舌を根性で引っぺがし、まるで申し合わせたかのように賛美を捲し立てるうちに、なんとなく希望を見出した彼らは、どんどん浮上し話を盛り上げていく。
そんな彼らに、ニコニコ顔で成り行きを見守るベルジュを指名した張本人は「演技力は未知数だけれどね」と内心でつけたす。口にしないのは、風船のごとく膨らんでいく彼らの希望に針を刺すような真似をして、せっかく形になろうとしている話がわれるのは嫌だからだ。

まぁ、わざわざ指摘しなくとも、彼らとてわかっているだろう。

いくらベルジュが多方面にわたり優秀な成績を修めているからといって、管轄外の分野で短期間に、しかも独学が主な練習内容で経験豊富な現役の実力者に追いつくなど、どう考えても無理な話なのだ。求めてはいけない神の領域。できたならまさに奇跡といえる。
それに、ベルジュの秘めたる才能が開花したとしても他がド素人ではかえって下手が浮き彫りにされるだけだし、全体のレベルが底上げされたとしても僅差では「芸術はシェイクスピア寮」の周知があちらに味方をして敗色濃厚。

つまるところ、勝利をもぎ取るには奇策≠講じる必要がある。

「ベルジュが主役の演目か。――お馴染みは、シェイクスピアだが……」

過去の公演リストを脳内に網羅して会議の進行役を果たしながら吟味するエリオットに、全員の心が演劇に傾いたことを確信したステュアートは、仕上げとばかりに提案した。


「ロメオとジュリエットはどうだい?」


しん、と場が不自然なほど静まり返る。すべての視線がステュアートへと向かった。
期待通りの反応にニンマリとした彼は、皆の視線に応えるようにゆっくりと頷く。

(そう。まずはインパクトで話題性を与えて、前評判を得る)

期待による注目度が一点に絞られれば、些細な不具合はまず気づかれない。審査の投票用紙は一般客にも配られるし、技術以外に重点を置く者を引き込めれば勝機も生まれるハズ。

(そのぶん主役の二人には頑張ってもらわないといけないけれど、彼らなら演技力とは関係なく充分に惹かれあっている雰囲気は出ているし。そこに観客の目を向けさせれば……)

ゲホ、ゲホッと苦しげな咳が響いた。
ステュアートが隣を見やると、生真面目を絵に描いたようなトーマスが目尻に涙を滲ませて盛大に咽ている。どうやら本人の意思を無視して林檎酒が喉を素通りしたようだ。
それでもどうにか零さずにグラスを置いた彼は、ゼイゼイと喘鳴を繰り返し、じろりとこちらを睨みつけてくる。涙目で訴える心の声を彼の性格を踏まえて翻訳するなら「公的な場で趣味を発揮するな、職権乱用だぞ」が適当だろうか。――だが、そこは当然黙止する。

職権を利用している自覚はステュアートにもあるが、良案である自信はあるし、目論見が成功するなら乱用とは言わない。しかし、正気を疑う眼差しは他方からも飛んできた。

「あのベルジュが恋煩い……。しかもその女性がいる会場でジュリエットに一目惚れして、素性も知らずにキスを交わし、知った翌日に即結婚。――ありえない」
「血気盛んな友人の性格を知りながら、彼がジュリエットの従兄弟に決闘を申しこむのをその場にいて止められず、割って入ったせいでその友人を殺され、衝動のままに仇討ちして追放の身というのは……。ギャップも過ぎれば物語に集中できないと思うけれど」
「後追い自殺をするためにジュリエットの眠る棺を開けてキスをして、彼女の身体に死の影が見えないと気づいていながら疑わずに毒を呑む、て。彼なら人工呼吸を試しそうだよね」

堅実派トリオの息のあった反対。その顔は生理的に受けつけられないと語っている。

「大要をありがとう。情熱家な彼は違和感があるかい?」

軽く片眉をあげて問うステュアートに、大アリだという視線がいっせいに向かう。
大仰に肩をすくめたステュアートは、彼らの反応を心の底から不思議がっていた。意表をつく推薦であることは認めていた。それを狙っての案なのだから、当然である。
しかし、同じ寮生である彼らならすぐに納得して、全員賛同するだろうと踏んでいた。

(そこまで的を外れているかな。完璧すぎて冷淡さが目立っていた入学当初のベルジュならともかく、東洋の真珠を掌中におさめて愛でている最近の彼でなら容易く思い描けるだろうに)

フォーダムの面倒を見ることで学園に馴染み始め、今では年相応の学生らしい時間を満喫しているベルジュの、時折垣間見える初々しい反応などは眼福モノの微笑ましい光景である。

(彼らが異議を唱える理由もわからないではないけれど)

ベルジュが監督生に見せる顔は、主に優れた能力に裏打ちされた強かさだ。
彼がロメオの立場なら後継者という地位を逆手に取り、たとえどんなに困難で長期戦になろうと必ず周囲から祝福される婚姻を結べるよう策を講じるだろう。仮に同じ選択肢しかなく罪に塗れたとしても、安易な死は選ばず裁きを受け、生涯をかけて罪を贖うに違いない。

だが、俳優に求められるのは役柄に忠実な性格ではない。俳優とは役柄の人生を写す器。つまり必要なのは役にあった存在感だ。そして主役に置くのは、様々な表情を見たいと思わせる魅力的な人物。――あの見目麗しい彼が、燃え盛る恋の炎に身を焦がす……日常生活においては絶対に見ることの叶わない姿をこの目に焼きつける絶好の機会。これを逃す手はない。

「想像してごらんよ。僕は万人にウケると思うよ」

ニッコリ笑って太鼓判を押したステュアートに、それなりにつきあいの長い幹部生一同はそろってウっと息をのみ顔を見合わせた。隠れジェスチャー大会が勃発する。
なにせ発案者は笑顔で地雷をばら撒く、存在そのものが取扱注意の危険人物だ。それこそ一言一句、一挙手一投足に警戒しないと被爆する。それで何度、物事が破綻したことか。アレも、コレも、あの時も…と、数え上げればキリがない。両手両足の指では足りない時点で数える気も失せる。さらに性質が悪いのは、浅いつきあいでは信頼に足る人物としか見えず、また持ってくる話にも奇妙な説得力があって、いつのまにか彼の狙い通りに話が動いている点だ。

だが、さすがにベルジュのロメオはないだろう。

そもそもである。頑強な理性と類稀なる知性で武装する沈着冷静なあのフランスの貴公子が、イタリアの若者のように情熱的に愛を告白する姿など、想像しようにもあまりにも難しすぎるのだ。せいぜいフォーダムへの態度が関の山。そう、あの面倒見のよさを独占欲の表れと見るのなら、そう見えなくもない。しかし、当然のことだがロメオの恋とは明らかに違う。

(たしかに、オリュンポスに住まう神々をも凌ぐあの美貌の主が女性を一途に恋う姿は、とっても見物だろうが……そう、どんなロメオになるかは想像もつかないが、ジュリエットに感情移入した女性陣が黄色い歓声をあげカーテンコールで喝采を博するのは間違いない……のか)

階代表就任から今日まで、ベルジュに引きも切らず押し寄せる数多の相談者を見る限り、彼に恋心を募らせている者は多い。高嶺の花と諦めている彼のファンに、ヒロインにその身を置き換えて刹那の恋愛を疑似体験してもらえれば、結構な投票数になりそうだ。

(なるほど。着眼点はあっているか)

「ふぅん。それで、羨望と嫉妬の眼差しを受けるだろう栄えあるジュリエット役には誰を抜擢するつもりだい?」

アルコールのせいでほんのりと顔が赤く染まっているカーティスの、面白がっているのが丸わかりの問いに、話の主導権を握るステュアートは迷いなく一人の生徒の名を挙げる。

「僕は、フォーダムを推すよ」

やっぱり、という心の声だけは全員一致する。

「ベルジュとアダムスを各階の階代表に任命したさい、双方がフォーダムを補佐に指名した件は君たちもよく知っているだろう。フォーダムをジュリエット役にすれば彼らも演技しやすいだろうし、なにより彼らの対立は話題にのぼりやすいからね」

多種多様な反応を見せる仲間に向けて、ステュアートは堂々と推薦理由をのべる。
その、このうえもなく上機嫌な様子に、もともと賛成派の生徒らは俄然張り切って話を進め、反対派はそれに流されないようにと必死に食らいついた。

「すると、ジュリエットの婚約者はアダムスになるのか?」
「待て、その前にフォーダムにジュリエットのイメージが当てはまらない。彼女は恋に積極的だが、彼は見るからに受け身だろう。慎ましいというか。もし、彼がジュリエットなら、双方の家の事情を優先して身を引きそうじゃないか? 恋心を抱えたまま誰かに不満をぶつけることもなく……つまり、睦言みたいなわがままを違和感なく言えると思うか?」
「愛らしく言うんじゃないか? それに、ベルジュのギャップよりはまだマシだろ」

「ベルジュなら観客が正気を保てなくなろうと構うことなくロメオを演じきるさ。……となると、相手をするフォーダムは大変かもなぁ。しかし、他に回すたって……」
「フォーダムがアウトなら、適任なんていないだろう」
「雰囲気重視。演技は二の次。本職じゃない僕らはそれで点数を稼ぐしかないよ」

「それなら、喧嘩上等なロメオの友人にはテイラーとか良さそうじゃないか?」
「なるほど。ジュリエットの乳母と従兄弟は?」
「俺さ、従兄弟のイメージがアダムスなんだよな。最初からロメオを目の敵にしていたし」
「そういえば彼、ベルジュに対してはずいぶんと反発していたっけねぇ。はじめから」

「ちょっと待て。テイラーは決定なのか? 大丈夫なのか? 彼は部活の推薦組みだぞ。演劇練習にそれほど時間は割けないし、しかもマキューシオは主役が食われるから途中退場したっていういわくつきだ。スター性ならテイラーにもあるが、大量の台詞を覚える記憶力は別物だろう。テイラーの筋トレ好きが脳にも当てはまるとは聞いたことがないぞ」
「脳トレする暇がないだけだろ。台詞を覚えるぐらい余裕だと思うぜ。一年の階代表だし」

「キミの、いいぶん……日々の時間、の…やりくりに、台詞の暗記、追加する余裕……あるのか、て、ことだろ? それも問題だけど、もう一つプラスして問題が」

酸味のある微炭酸のアルコールを誤って気管に流しこんだ痛みからようやく脱したトーマスが、充血して涙をにじませている目を瞬かせ、嗄れ声で待ったをかけた。
向けられた十人十色の視線にビクつき空咳一つこぼすと、ぼそぼそと訴える。

「ベルジュとフォーダムのラブシーンは、各方面への影響が大きすぎないか?」

トーマスの脳裏に浮かぶのは、昨年のハロウィーンを目前に控えた、とある夜のこと。
お気に入り発見と目の色変えて宣告したステュアートが仲間の警戒網を突破して姿を晦ませたあの日、皆、ムンクの『叫び』体勢で顔を突き合わせ、手本となるべき監督生の不祥事は拙いと秘密裏に処理すべく、階代表の仕事である点呼まで代わって彼を捜索したのだ。
そこで事態は、第二学年の点呼を担当したトーマスの繊細な心にさらなる打撃を与える。

騒々しい部屋にココかと気合を入れて扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは銀髪の少女とその背後で展開する恐ろしい光景。即行「夢」と断定し「早く起きて捕まえないと、毒牙で餌食に……」と魘され気絶した。そのまま朝を迎えてしまい、昨夜は第一学年の自習室で標的を弄っていたという諸悪の根源に「その少女はフォーダムの女装だよ」と羨望の眼差しを向けられ、現実だったことに打ちのめされながらも一連の失態を記憶から抹消しようとするも叶わず「学園生活で一、二を争う汚点」と銘打ち柩に仕舞い、厳重に封印して記憶の底に埋葬した……というのに。なぜ、今また思い出しているのだろう。
掘り起こした記憶を前に泣きたくなったが、ここで挫けるわけにはいかない。

清楚可憐な少女にしか見えなかった――しかも、アダムスと女装したテイラーのベッドインが視界を掠めさえしなければ一目惚れをしていたと確信できるほど魅力的だった……フォーダムと、紳士的な振る舞いが板についた眉目秀麗なベルジュに恋人の演技などさせたら、完璧に人目を惹きまくる似合いのカップルだ。絶対にあてられる。余計な噂も広まるだろう。

そう、恐ろしいのはその噂なのだ。火の無い所に煙は立たないと恋人説がさも真実のごとく広まり、それが二人を洗脳して本当に恋仲となってしまったらどうしてくれる。問題は学園内では収まらない。欧州を股にかけた財界屈指のベルジュ・グループ。彼はその後継なのだから。

沈黙が広がるなか、窓を叩きつける雨音が思索を促した。
壁時計の秒針が、妙な緊迫感を煽る。


「そうだな」


赤面してカリカリとこめかみを掻きつつ納得した生徒を皮切りに、白々しい苦笑いが全体へと広まっていく。一人取り残されたステュアートが、それのどこがいけないのかと怪訝な顔で周囲を眺めやるなか、話に入るのを控えていた下級生が「なるほど」と指を鳴らした。

「恋人の演技はお手の物でしょうけど、他寮にまで恋仲を噂される可能性が高いということですね。否定材料なんてありませんし。隠すつもりでいるならまずいことになりますね」

その指摘に、一同は首を捻る。

「隠すって、恋仲じゃ……。いや、ソウなのか? だからベルジュの行動が妙なのか……」
「ああ、相談者が片寄っている件か。……フォーダムに何かあったのかい?」
「いまのところ大事には至ってないようだが、雲行きはあやしいな」

「ベルジュの影響力は広範囲に行き渡っているからね。そのポジションの持つ宿命だね」

「――。えっ、それで終わり? それってつまり静観ってこと? フォーダムって生贄?」
「生贄ってそんな物騒な……でも、云い得て妙な気が……」
「当事者からの相談がないのだから手の打ちようがない。何か考えがあるのかもしれないし」

皆で順繰りに発言していると、カーティスがふと遠い眼をして呟いた。

「彼も年相応ってことなのかなぁ。――入学当初のベルジュは、見るからに孤高だったからね。負担だけ背負わされて青春を味わうすべもなく、貴重な学園生活も単なる通過点にすぎなくなってしまうのではと他人事ながらに心配していたけれど……恋は偉大だねぇ」

「ま、まてマテ、待てよ。そんなしんみり顔でお前まで爆弾発言するな。うっかりつられたけど、そこは『恋』じゃなくて『友情』だろ。彼らはつきあってないぞ。ナイよな?」
「同意を求められても……。僕は、そういうのを見分けるのは苦手なんだ」

半泣き状態となったサムに、からまれたトーマスは泣き上戸だったのかと眉をハの字にしたとき、楽しそうにその様子を眺めていたカーティスが火に油を注ぐ。

「それは二人にしかわからないよ。性的な関係に発展していないのは彼らを見れば一目瞭然だけど、清い交際というのもあるし。ベルジュは見るからに聖人君子だからね」

最後に少しつまらなそうな顔で結論付けたカーティスに、ステュアートが首を傾げる。

「そうかな。たしかにベルジュは理知的だけれど、同時に計算高くもあると思うよ。たとえば傍にいることを正当な状況にして独占欲が見えづらいのは高度だけれど、そう画策する時点で立派に人間らしいし」
「そうか。宗教家じゃなくて実業家だからね、彼。それには望む未来に近づけるための堅実的な実行力もないと。さすがは世界に名立たるベルジュ財閥の後継者だ」

一転、目を輝かせて感嘆するカーティスに、ステュアートがニッコリと微笑んで相槌を打つ。

「ベルジュの人気が高いのはわかるが、君たちの会話を聞いていると彼がどんどん腹黒く見えてくるのは気のせいか?」

重いのか、軽いのか。収拾つかないユルイ空気のなか進む話のズレに、エリオットは軽く眩暈を覚えた。げんなりとした声は誰の耳にも届かなかったようで周りは恋話が咲き乱れている。
だが現実問題、春祭には生徒の家族はもちろん学園長であるレント伯爵のご子息のアレックスが来校する可能性は極めて高い。いや、演目が劇でフォーダムが舞台に立つと知れれば、確実に彼は来る。幼少期からつきあいのあるフォーダムの身を案じて、英語に不慣れを理由に理性的なベルジュを世話役に置いたのは、ここにいる全員の知るところだ。

その二人に、アレックスの前でラブシーンなどさせたら……。

「洒落にならんな」

エリオットは眉間に皺を寄せてぼやくと、頭を切り替えるように林檎酒を飲み干した。

「冗談はさておき、本題に入ろう。恋愛色が薄いもので上演時間を考慮すると、何が残る?」

無言で顔を見回すメンバーのなか、ステュアートがにっこりと微笑んで提案する。

「それなら『ハムレット』はどうだい? 世界に認められた不朽の名作。主役のハムレットをベルジュ。レアーティーズをアダムスが演じれば、最終幕の剣戟も盛りあがると思うよ」
「それでオフィーリアが、フォーダムか」

ひきつり顔のトーマスの確認に、ステュアートは答え代わりに満面の笑みを浮かべる。
名案だと賛成する多数派と、迷案だと難色を示す少数派。
キスシーンこそないが、あれも相当なイチャつきぶりだ。

「ハムレットとオフィーリアのやりとりでも、きわどい場面があった気がするけど?」
「あの程度なら平気だろう。彼らにしても違和感は服装くらいじゃないか?」

それはそれで問題な気もするが、その辺に異論を持つ生徒はこの場にはいなかった。

「ベルジュの心酔者の件は? あやしい雲行きなんだろう?」
「今だけだよ。そろそろ君の所に麗しの君が訪れる頃だと思うのだけれど、どうだい?」

一人粘るトーマスにさらっと返したステュアートがエリオットを見やる。

「残念ながら、音沙汰もないよ。だが彼らのことだ。心配はいらないだろう」

鬱陶しい怪視線に、エリオットは脱力気味に答えると、仲間を見回して話をまとめた。

「演目はハムレットで決定する。ほかに誰か推薦は――」

 

 

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対岸の小山より吹き下ろされた風は、水面に細波を立てながら湖を滑ると、水際の草を薙いで上陸した。中世から近代までの建造物が立ち並ぶ学園の敷地内を、縦横無尽に吹き抜ける。
通りの木々は梢を鳴らし、葉に纏わりつく雫が振り払われると、水滴は空中で煌めいて、根本を彩る真新しい落ち葉や木の実の上へと落ちて滑り、地中に吸い込まれてゆく。

一面に広がる森林の芳しい香。遠くから、近くから、飛び交うさまざまな鳥の鳴き声。

昨夜の嵐が嘘のような雲ひとつない大空の下、西日に映える学園の澄みきった空気を多くの生徒がのびのびと満喫するなか、彼らはしっとりと冷えた空気のこもる薄暗い室内にいた。

「会議の結果、今年度の春祭は舞台『ハムレット』に可決した。詳細は渡した資料に記してあるとおりだ。配役はこちらで適当に決めさせてもらったが、異論のある者や都合のつかない者は私に申し出たまえ。事情によっては役を外し、次の人選を行う」

校舎三階の執務室。質の良いアンティークで取り揃えた豪奢な室内で、ヴィクトリア寮に所属する下級第四学年の本館寮長エーリック・グレイはそう命じた。
対するは同じ寮の後輩、第三学年のシモン・ド・ベルジュを筆頭とした劇の主要登場人物に選ばれたメンバーだ。指名されるだけあり寮を代表する煌びやかな面子となっていたが、特筆すべきはやはりベルジュの群を抜いた存在感であろう。

「そうだな。明日の昼を期限としよう。申請がなければ了承したとみなし、今週末にも皆の前で正式に発表する予定でいるので、あらかじめ心しておいてくれたまえ」

この度めでたく舞台監督という重要な役目に任命されたグレイは、そう言葉を続けて面々を見回すと、指揮系統の頂点に立つ者の席――権力の象徴である特別製の椅子の背に悠然と凭れ、マホガニーの机に手を滑らせた。指先を交互に絡めるようにして両手を組む。

地位を意識したグレイのどこか不自然な仕草は、見る側まで肩が凝りそうで辛いものがある。
ヒュー・アダムスは鯱鉾ばったグレイをうんざりと見やってから、配布されたA4サイズのプリントに目を落とした。とたん、表情を険しくさせる。

(ベルジュのハムレットに、ユウリのオフィーリアだと?)

眉間の皺をグレイ以上に深くさせて、ヒューは配役を睨みつけた。手に力が入りすぎてプリントがプルプルと震えたが、ぶれて文字が読みづらくなろうと今のヒューには関係ない。
以前見たハムレットの舞台が、ベルジュとユウリの顔で記憶によみがえる。しかも思い出した場面がハムレットとオフィーリアのラブシーンともいえる掛け合いだったため、発作的にプリントを破きかけた。なんとか、ぎりぎり思い止まったが。破いたところで配役は変わらない。
深く息を吐き出すことで空想ごと激情を肉体から追い出し、繋ぎ止めた冷静さを抱え込む。

(ユウリのオフィーリアは見てみたいけどな)

清楚なイメージはぴったりだとユウリに目を向ければ、彼はかすかに唇を開いて隣に立つベルジュをうっとりと見上げていた。できすぎの王子様に憧れているのまで同じだ。イラッとしながら認める。誰が役を決めたのかは知らないが、ここまで実生活と状況が似通うのも珍しい。

ユウリの熱視線に気づいたのか、ベルジュがユウリを振り返り、組んでいた腕を解いて彼に顔を寄せると、耳元でこそっと囁いた。「え?」と目をぱちくりさせたユウリに、ベルジュは「見てないのかい?」とユウリの持つ用紙を覗き込み、人差し指でスッと表面をなぞる。
彼らを取り巻く甘ったるい空気に胸やけをおこし、ヒューは視線を手元のプリントに戻した。

(俺はレアーティーズか)

「ぼくが、オフィーリア?」

確認する頭の声と、ユウリの深刻そうな呟きが重なる。つい顔を上げてそちらを見ると、グレイが「ああ、フォーダムか」と寄り添う二人に気難しそうな顔を向けていた。

「見た目のバランスを考えても君が一番適していると、会議では満場一致だったそうだ。異性の役は勝手が違い苦労も多かろうが、他に候補者がいないのが現状だ。できれば君に引き受けてもらいたいのだが、どうだろう?」
「あ、……はい。オフィーリアという大役に動揺しただけです。僕でよければ力を尽くします」

意気込むグレイの押しの強さに、ユウリが引きぎみに頷く。上級生からユウリを逃すなとでも言われていたのかあからさまに肩の力を抜いたグレイは、達成感に満ちた顔でこちらを見た。

「うむ。君たちも、良い返事を期待している」

それが解散の合図となり、呼び出された一行は長居無用とばかりに執務室を後にした。

貴重な午後の休憩時間も、気づけば残りわずかとなっていた。ほとんどの生徒が移動を終えて閑散とする廊下の壁や天井に、複数の足音が木魂する。突き当たりの幅狭な階段を下りて外に出ると、湖面を渡ってきた風が石造りのトンネルを吹き抜けていった。
狙い澄ましたような突風に目を閉じたユウリを、ベルジュが庇うように一歩前に出て盾となる。それに気づいたユウリが、どこか憂いを帯びた眼差しでベルジュのうしろ姿を見つめる。

(つきあいたての恋人かよ)

懲りずに彼らを目で追ってしまったヒューは、そんな自分ごと呆れ果てて目をそらした。

「すごい風だったね」

髪が一瞬でぼさぼさだよとぼやくルパートの声を耳にして、意識をそちらに向ける。

「いってぇー。埃が目に入った」
「目をこするのはやめておけよ。眼球に傷がつく。泣くか欠伸をすれば取れるから」
「ぜひ、欠伸にしてくれ」

 目をシパシパさせるテイラーの手の動きに、気づいたウラジーミルが手首をつかんで忠告し、うっかりヤツの男泣きを想像してしまったヒューは顔を引きつらせてぼやく。心情を読み取ったルパートがぷっと噴きだし、パスカルが時刻を示してやんわりと先を促し、一行は校舎から最西端にあるヴィクトリア寮へと急いだ。

プラタナスが並ぶ湖畔の道は色づき、低い位置からの陽射しが辺りを黄金色に染めている。
ひらひらと空を舞う手のひらサイズの枯葉と、陽射しを浴びて煌めく黄葉する草木。
鏡のように水際の景色を逆さに映す、美しい紺碧の湖。

去りゆく秋の気配がそこかしこで感じとれる晩秋の風景を眺めていたヒューは「ハムレットか」というルパート・エミリの呟きに前を見る。どうやら黙っていることに飽きたらしい。

「配役は、どうやって、決めたんだろう」

左手の指先でつまんだプリントをヒラヒラと頭上ではためかせるルパートの、息が上がっているのが丸わかりのぼやきに、先頭を行くウラジーミルが振り返りざま口端をつりあげる。

「見た目と日頃の行いによるイメージじゃないか? おしゃべり好きな、日和見主義のポローニアス。お前にはそいつの心理が想像しやすいだろう、ルパート」
「そういうウラジーミルは、甥であり息子となったハムレットを殺そうとするクローディアスの心が御見通しなんだね?」

毒舌はウラジーミルの十八番と知りつつも鼻に皺を寄せたルパートは、すぐに笑顔を取り繕うと反撃に回った。ウラジーミルは歩幅を狭めてルパートの隣に並ぶと、フフンっと鼻で笑う。

「俺の見解は恐怖だな。優秀な兄への嫉妬と高すぎる自尊心が、分不相応な願いを育て、兄殺しを実行させた。だが兄の息子である聡明なハムレットは、当然ながら服従しない。いつか復讐される。そう強迫観念に囚われた小心者は、ソレの排除に動いた。つまりシモンを見るたびに作り笑いをして頬筋を鍛え、策を弄するときの狂気は……血走った目か」

たどり着いた結論に、眼の細さを自覚済みのウラジーミルは眉間に皺を寄せた。
その苦々しい声に、成り行きで先頭を歩いていたパスカルは思わず苦笑する。

「クローディアス役も骨が折れるね。眼輪筋は顔を動かさずに四方八方を見るとつくよ」

ちょっとだけ振り返り、ひょいと人差し指で眼鏡の柄を跳ね上げて目尻に触れたパスカルの、助言か揶揄か判断のつきかねるお言葉に、ウラジーミルはちらりと前を行く彼を見やる。

「観客の導き手となるホレイシオの登場回数と台詞量を思えば、どうってことないさ」

同情の視線込みの指摘に、ホレイシオ役のパスカルは「そうかい?」と肩をすくめる。

「作り笑いってどんなの? 口は笑っているのに目は笑ってないってやつ? というとモナリザが浮かぶけど?」

石造りの眼鏡橋を渡り切った辺りでウラジーミルを見上げたルパートが、興味津々に話を振る。その期待満面の顔にウラジーミルはしばし沈黙し「こんな感じか?」と微笑を浮かべた。

ウラジーミル作『クローディアスの微笑み』の威力はいかばかりだったのか、目の当たりにしたルパートが「ひぇっ」と本気で慄いて奇声をあげ、仰け反った。真後ろにいたユウリは、とり残された踵を踏まないようとっさに避けるも、結果的に足が縺れてバランスを崩し、右隣を歩くベルジュに支えられる。

「あの、さ……その顔、冗談抜きにして怖いんだけど。シモンのミスを誘う作戦かなにか?」
「時間も場所も関係なく注目されるのが当たり前のこいつが、俺の表情一つで動揺するかよ」

戦々恐々とするルパートに、話を盛り上げるためのオーバーアクションと捉えたウラジーミルが、シニカルな笑みを浮かべて「なぁ」と真後ろにいたベルジュに同意を求める。
なんとか体勢を整えたユウリを見届けて手を離したベルジュは、真顔で正直に答えた。

「動揺を表に出さないように心掛けてはいるけれどね。その練習は稽古中か鏡の前に止めておくほうが賢明だと僕も思うよ。今の流れを見る限り、大なり小なりの被害は出るようだしね」
「あ、でも、今のうちに見慣れておいたほうがいいかもしれないよ、シモン」

ベルジュの返答に、早くも前言撤回したルパートのずいぶんな主張を聞いて、ウラジーミルは「へえ」と目を眇めて二人を見やる。

「俺の微笑がそこまで影響を及ぼすとは想定外だったな。自覚しておこう」

彼らのやり取りにユウリはクスッと小さく笑ってから、手もとの用紙を見下ろした。その顔はじわじわと憂いを帯びていき、ため息を吐く。面倒というよりは自信がないといった感じか。

「オフィーリアか」

口からこぼれ落ちたか細い声に、ヒューは思わずユウリの背中をどやしつけた。

「なんだよ、ユウリ。練習前から怖気づいているのか?」
「わっ!」

力の加減はしたのだが声をあげてつんのめったユウリに、ヒューはあわてて彼の華奢な両肩をつかんだ。間に合ったことにホッとして、瞠いた黒曜石の瞳にニッと笑いかける。

「大丈夫さ、お前のフォローは兄である俺に任せとけよ」

クシャとユウリの髪を優しくかき混ぜる。サラサラの絹糸のような黒髪は縺れることがない。
もっと触れていたかったが、ルパートがクルッと踵を返したため、その手を離した。

「そうそう。かわいい娘には父親だってついているからね」
「ヒュー、ルパート……」

ルパートの笑顔の合いの手にユウリは眉尻を下げると、葛藤ののち女の子扱いに拗ねる気分が勝ったのか、とうとう口をヘの字にする。と、そのときベルジュが脇から口を出してきた。


「ユウリが嫌だと思うのなら、無理に引き受ける必要はないよ」


その言葉を聞いたユウリが、ほんのわずかに身体を強張らせた。ベルジュを見あげる。

「でも、ハムレット役を演じる者としてオフィーリア役を推選してもいいのなら、僕もユウリを指名したいな。演技の練習も、空いた時間に気軽にできるしね」

ベルジュの微笑みながらの言い分にユウリは肩の力を抜いたが、目を伏せた面持ちから憂いは消えない。怪訝に思ったヒューが声をかけるその前に、ユウリが上目遣いにベルジュを見た。

「シモン、面白がってない?」
「そんなことはないよ」

緩みきった顔もお綺麗なベルジュの返しに、ユウリが拗ねたように唇を尖らせる。
気のせいだなとヒューが彼らから顔を逸らした時、最後尾を歩くケストナーがゆるゆると首を左右に振りながら脇にきて、血色のない精気の失せた顔で前を行くユウリに話しかけた。

「ユウリ。男性役に選ばれた彼らに、僕らの嘆きは伝わらないよ。人前で女装、しかもよりによってベル……男に押し倒されるなんて……。――悪夢だ」
「それなら僕は、人前で男を押し倒すなんてと嘆こうか?」

どんよりと重たい空気を背負ってぼそぼそ訴えるケストナーに、すでに割り切り済みのベルジュが軽く返して肩をすくめる。だが『ベルジュ』から『男』に言い換えたケストナーの真の嘆きを過たず読み取った数名は、憐れみを帯びた眼差しを惜しみなくケストナーへと捧げた。

「そっか、ケストナーは王妃のガートルード役だっけ」

ユウリがぽそっと呟く。
王妃の寝室に隠れるポローニアスを、前王の葬儀後すぐに王妃と結婚して王座に就いたクローディアスと勘違いして殺したハムレット。そのときの彼は狂気の演技と本性の境界線がひどくあいまいで、本性を狂気と母から判断された。物語の中でも重要な分岐点となるその場面では、たしかに彼女は、前の夫との息子であるハムレットに押し倒されていた。

「僕がガードルードなんて何かの間違いだ。見た目で選ばれたなら役を推した上級生の視覚を疑うし、イメージだなんて言われたらそれこそ僕のお先は真っ暗だ。理由があるとすれば芸術系……にしてもピアノ弾きと役者は畑違い。観客の笑いを取るのが目的にしたって限度がある。――ユウリは似合いそうだよね。満場一致も頷けるよ」

儚い己の人生を嘆くような顔で、とりとめもなく口から流れ出るケストナーの自己評価の、現実逃避のように付け足された言葉とマジマジと観察する眼差しに、ユウリはたじたじとなる。

「そんな、ぼくだって似合わないよ」
「謙遜、謙遜」
「してないって。そもそも、それ、誉め言葉じゃないし」

そっぽを向いてプクッと頬をふくらませたユウリに、一連のやり取りを眺めていたヒューは、クッと苦笑をもらした。伸ばした指先で、ツン、とユウリの滑らかな頬を突く。

「機嫌直せよ、ユウリ。ハロウィンが終わった今、コレが最後の変装だ。楽しもうぜ」

ユウリはつつかれた頬を撫でながら納得がいかないという顔をしていたが、ふっと微笑した。

「そうだね」

頷いて、黒絹の髪を揺らしハムレット役のベルジュを見上げる。
ユウリにつられてヒューもベルジュを見やると、ユウリだけをひたと見つめるベルジュの双眸が優しく細められ、水色の瞳が蠱惑的に煌めいた。ヒューはゲッと鳥肌を立たせてユウリを見ると、フランスの貴公子が発する泡沫の色香をまともに浴びてポーっとなってしまっている。

「ユウリ、ぽやっとしていると転ぶぞ」

不機嫌さを隠せていないヒューの低い声に、ユウリがハタっと我に帰り、同時にルパートが「わぉ、授業に遅刻する!」と大声を上げ、一同は二棟先に見える我が寮を目指して走った。
嵐の過ぎ去ったこの日、ヒューはそれなりに月並の青春を謳歌していた。

 

 


約束の週末。幹部生から指示を受けた春祭実行委員は、食堂に集まる寮生の前で配役を発表すると、その場で役者・衣装・音響照明・道具に分かれてのグループミーティングを設けた。

配布されたばかりの台本で簡単な台詞あわせをする最中「役者全員が居合わせる機会なんてそうはない」と奮起した主要登場人物の衣装担当が、メジャーを片手にどっと押し寄せ、有無を言わさずその場で採寸し、ノートに記録していく。入れ替わりに春祭実行委員がやってきて、空欄の日程表を配りながら「わかっている限りでいいので、都合の悪い日時をこちらに記入して週明けまでに階代表まで提出をお願いします」と指示し、違うグループの下へと去る。

なんやかんやとミーティングは延びに延び、すべてのグループが作業を終える頃には消灯まで三十分を切っていた。六人部屋の住人は今頃就寝準備に追われていることだろう。

「まずは役柄の性格をつかむこと……か」

帰り際にグレイに呼び止められたシモンから、先に部屋に戻るよう勧められて帰ってきたユウリは、簡単にシャワーで汗を流して明日の準備を終わらせると、応接間のソファーに座った。
シモンを待っている間に台本でも読もうと思ったのだが、ふいに触れた不特定多数のシモンへの想いの澱にビクッとして立ち上がり、居た堪れなさからその席を離れる。迷った末にシモンが座る側のソファーに移動して、そこに宿る残り香のような彼の波動にホッと息を吐いた。

(憧れて当然だよね)

さきほど触れた思念の持ち主……この部屋に訪れる相談者の面々を脳裏に浮かべる。

階代表の仕事の一つである下級生からの相談受付は、この応接間で行われる。
プライバシーの保護から相談は主に一人ずつ。連日訪れる多くの相談者にここは占領され、ユウリがソファーに座った回数はこの三ヵ月間で両手にも満たない。それどころか、応接間自体が足早に通り過ぎるだけの、ユウリにとって縁遠い場所と化していた。

というのも、部屋の前の廊下には相談待ちの生徒で行列ができるのだが、彼らは常に部屋に戻るユウリに悪意ある視線や言葉をさし向けてくるのだ。室内に入ってもシモンの前にいる相談者の目はユウリを拒んでいて、そのまま寝室に閉じこもるよりほかなかった。

同室者がシモンと対等の能力を誇っていたなら、あるいはここまでの風当たりもなかったかもしれない。けれどユウリは今年卒業した学園長の息子の伝手でシモンの恩恵を受けられる、運のいい凡人でしかない。少なくともユウリはそう自覚していたし、彼らから相応しくないと疎まれても「あらかじめ予想済みの、辛抱しなくてはならないこと」として諦めていた。

(さっきの視線には本気で挫けそうになったけど)

配役が発表された際の敵意のこもった視線の集中砲火を振り返り、背筋が寒くなる。今以上に状況が悪くなることは容易に想像できて、ユウリは暗澹たる思いで無理やり台本に没頭した。

 

 
真剣な表情で台本と向き合い、口紅を差したような唇でときおり小さく台詞を紡ぐ。
水気を含んだ黒絹の髪が頬や額に纏わりつくのも気にせず、瑞々しく張りのある肌理細やかな肌のうっすらと上気した様子がシャレにならないほど艶めいているのにも気づかない。

コンっと軽いノック一つで部屋に入ったシモンはその光景に息を呑み、ふいに顔をあげたユウリの黒曜石の瞳と目が合うと、会話もそこそこにシャワールームへと直行した。
サァーと音を立てて降り注ぐ熱い湯に瞳を閉じ、シャンプーを洗い流して白金髪を無造作にかきあげると、シモンは深く息を吐き出した。排水溝へと流れていく泡を目で追う。

ルームメイトの湯上りを見る機会は日常茶飯事にあるというのに、服から覗く素肌に目が吸い寄せられ視界から外すのも一苦労というのは、あまりよろしくない事態だった。ユウリに見惚れることはこれまでに多々あれども、話はそこで終了していたというのに。

(まいったな。台詞あわせをした名残だろうけれど)

触れたい。この腕のなかに囲ってしまいたい。誰にも渡したくない。

そういう欲求を、ハムレットはオフィーリアに対して常に持っている。だから未来を見据えているときはみだりに彼女には触れたりせず紳士的に振る舞い、叔父への復讐を決意し未来を切り捨ててからは思う存分に触れ、罵った。いろいろあってもオフィーリアへの執着は変わらず、彼女の死で慟哭となり、けれど自分が死を迎えるときには復讐の達成しか語られない。
シモンがハムレットを英雄視できない理由の一つである。

(ユウリは、オフィーリアをどういうふうに演じるだろうか)

平常心を取り戻すまで存分にシャワーを浴びてから上がり、肩にかけたタオルで髪の水気を十分に拭き取ってから、白い寝衣に着替えて応接間に入る。台本に集中するユウリの涼しげな横顔に目をとめて食器の並ぶ戸棚からマグカップを二つ手に取ると、ユウリに声をかけた。

「ユウリ、ハーブティーでいいかい?」
「あ…うん、ありがとう」

ワンテンポ遅れの返事を聞く前に二人分のティーバッグを用意してそれぞれのカップに入れ、ポットの湯を注ぎ、一対の小皿とスプーン、ハニーディスペンサーと次々にトレーに載せて移動する。台本を脇に寄せて仰のいたユウリに注意を促し、トレーを揺らすことなく机に置いたシモンは、迷宮に入り込んでしまったようなユウリの心許ない顔を間近に見て苦笑した。

「オフィーリア」

とある思いつきから役の名で呼ぶと、ユウリは小さく肩を震わせてからスッと背筋を伸ばし、黒曜石の瞳でまっすぐにシモンを見つめ返した。問うように小首を傾げる。
ソファーに浅く腰を掛けてのそのお淑やかだがどこか可愛らしい仕草に、ぼんやりとイメージしていたオフィーリアがはっきりと形をなすのを目の当たりにしたシモンは、奥底に沈めた感覚が引きずり出されるような胸のざわめきに、次の言葉を躊躇う。迷ったすえに口を開いた。

「他国へ留学して帰宅がままならない妹想いの兄から名前を呼ばれたら、オフィーリアはどういった反応をすると思う?」

視線をそらさないまま、ゆっくりとユウリの隣に腰をおろしてシモンはそう問いかける。
ユウリは睫毛を伏せて瞳を隠す。ソファーのクッションが沈んだことでユウリの身体が傾き、石?の香りが伝わるほど二人の距離を近づけた。トンと軽く触れた肩にシモンは息を呑む。

(なかなか会えない、妹想いのお兄さん……)

一方のユウリは持ち前の集中力を発揮して、シモンから得たヒントを道標に思考の海へと旅立っていた。五つ年上の従兄である隆聖を思い浮かべて顔をしかめ、三つ上の姉であるセイラをイメージして眉間の皺を解く。隆聖をレアーティーズに置くには性格に違和感がありすぎ、むしろセイラのほうが性別の違いはあるもののしっくりきたからだ。実際、同じ両親の血を引くのはセイラだし、好きという感情が一緒ならかまわないだろう。

「……ちょっと甘えた感じ、かな?」

湯が色づいたのを見計らってティーバッグを小皿に移したシモンに、ユウリも倣ってぷかぷかと浮かぶそれを取り除く。とろりとした黄金色の蜂蜜を入れてカラカラとスプーンで軽くかき混ぜてから両手でマグカップを持つと、フーッと冷ますように息を吹きかけた。

カモマイル、ミント、レモングラスなどがバランスよくブレンドされたハーブティーは、凝り固まった頭を解すのに丁度いい。火傷をしないように少しだけ口に含み、蜂蜜のほのかな甘みと鼻を通っていく香りに癒されたユウリは、ホウっと満足そうに息を吐いた。

「教育に熱心な父親だったら?」

穏やかなシモンの声。フランス語訛りの流暢な英語が、耳から全身に沁みとおる。
ハーブのリラックス効果と相まって、ユウリは夢心地のままにオフィーリアへと誘われる。

「親しみは変わらないけど、甘えが抜けるかもしれない」

ぼんやりと答えるユウリにシモンは水色の双眸を伏せると、ゆっくりとその端正な顔をユウリのキレイな顔に寄せていった。少しずつ、空気を壊さないよう慎重に……。

「それなら、恋人であるハムレットは?」

器用そうな長い指を伸ばして、絹糸のようなユウリの黒髪を優しく梳く。
しっとりとした前髪を優しく絡めとり、そっとほどいたシモンの指先は、そのままユウリの透明感のある肌に触れて輪郭をたどると、ほんのりと赤く染まる頬に両の手を添えた。

「………ぇ……」

お互いの鼻先が触れるまで、親指の長さぶん。目を瞠くユウリの朱に色づいた唇はわずかに動き、あえかな声を漏らす。東洋的な小顔の整った面立ちには涼やかな美しさがあり、誰からも美の称賛を受けるシモンをもじんわりと魅了する。間近に迫るシモンを映しこむ潤んだ漆黒の瞳に浮かぶのは、困惑と根底にある親愛の情。それは友人としてのもの。――だから。

「オフィーリア」

鼓膜をくすぐる甘い響きは、ユウリからシモン以外のすべての事象を奪った。

濡れて輝く淡い金色の髪に縁取られた白皙の美貌。南洋の海のような水色の双眸は彼の魂を映して美しく煌めき、覗き込んだ瞬間から時が過ぎ去るのも感じられないほど魅入ってしまう。


「いいのかい、そこまで隙を見せて? 襲ってしまうよ」


とんでもない言葉を軽口にのせ、白金の睫毛を柔らかく伏せてクスッと苦笑するシモンに、ただただ?然としていたユウリはようやく我に返ると、耳に届いた単語を反芻して赤面した。
ぎくしゃくとしたぎこちない所作でカップを机に戻す。

「なにいって、……からかわないでください、ハムレット様」

コトン、とマグカップを机に置く小さな音が、静かな室内でやけに大きく響いた。その音にビクリとして手を引っこめたユウリに、シモンは真顔になると、その身に纏う雰囲気を変えた。

ユウリの頬を包み込んでいたシモンの左手の指先がスゥとハリのある瑞々しい肌をすべり、耳朶にふれ、首筋のラインをたどって背中へと降りていく。ゆっくりと。羽根先が触れるような軽いタッチはくすぐったく、だがそこに漂う空気は笑うことも逃げることも許してくれない。

なによりも、見たことのない水色の双眸がユウリの心を捕らえて離さない。

砂糖が熱せられトロリとしたカラメルになったような、甘さに深みを与えるほろ苦さにも似た密度の濃い空気が、じわじわとユウリを絡め捕る。シモンの身体に見合った大きな手は、そのままユウリの身体の線をたどるように肩甲骨を降りて細腰を支えると、もう片方の手は黒絹の髪を指先に絡ませるようにうなじから後頭部を押さえ、真綿で包むように抱きすくめる。


「……オフィーリア……」


発声によるシモンの喉の振動が、肌を通して伝わってくる。

突然の変貌に固まっていたユウリは、熱を帯びた呼気をまともに耳に受けて、内側から融けるように、ふるり、とその身を震わせた。薄手の生地を通して伝わるのは熱い体温と心臓の鼓動、彼の持つ柑橘系の香り、そして欲してやまないあの光のオーラ。そこに形容しがたい感覚が芽生えて、反射的にそれから逃れようと腕を持ち上げシモンを突き放そうとしたが、彼はそれを許さず逆にユウリの身体を引き寄せた。トクトクトクトクと心臓が早鐘を打って息苦しい。

でも、この温もりは決して嫌なものではない。

「――すごく、緊張する。でも……うれしい……のかな?」

なんとかユウリ自身の言葉で感覚を伝えると、艶めいた雰囲気を払拭した穏やかな笑い声が耳に届いた。軽く手を押し出すと、今度は簡単に身体が解放される。

「それでいいと思うよ」

ユウリはホゥと火照った顔で息をついた。身体から力が抜けていき、背もたれに寄りかかる。
ソファーに座り直したシモンは、何事もなかったかのようにゆったりと寛いだ様子でハーブティーを飲む。絵になるその姿を見て、ユウリも一向に静まる気配のない鼓動を落ち着かせるべくマグカップを手に取ると、冷めて飲みやすくなった中身を乾いた喉に流し込んだ。

役の気持ちを手っ取り早く意識させるためにしたのだろうけれど、すごく心臓に悪い。

「シモンは、もう、役柄を把握したみたいだね」

じとーっと上目遣いにシモンを見やると、彼は悪戯がばれた子供のように目を泳がせた。

「まあ、ほどほどにね。ハムレットの舞台は見たことがあるし、脚本に変更は見られないから」

ごまかしまじりのシモンの返答に、演技への気負いは一切感じられない。だがハムレットの台詞は量も長さも膨大だ。存在感の割にさほど多くないオフィーリアの台詞でさえ危ぶんでいる自分を振り返り、ユウリは改めて目の前に座る友人の優秀な頭脳に感服した。

 


        *

 


深夜0時の境界線を跨ぐ頃から、地上に立ち込める重たい大気は存在するあらゆるものに身を寄せ露となり、軽くなった空気はふたたび清々しさを取り戻して夜明けを待つ。
夜、眠ることで疲れた身体を癒し、朝には活力を取り戻す。
大気の変化と同じサイクルの生活を営む人間が健康なのは、それが身体に負担のない生き方だから。それは取りも直さず人間も地球の一部だということを教えている。

(例外はあるが、たいてい夜更かしは不健康とされているしな)

霊廟からの帰り道。暗い湖面が木々の合間から見え隠れする小道を恋人と二人で歩いていたヒューは、静かに空を見上げた。湖を渡って吹き上げる風が、道の両脇をうめつくす雑木林の枝葉を揺らすと、ほぼ丸い月も見え隠れする。

(でも満月の夜は血が騒ぐ)

潮の干満と同じ原理。――月の引力。人間も、身体の大半が水分でできているために影響を受けるといわれ、実際に満月の夜は事件が多発し、負傷した際の出血量も増えるという。

(つまり、体内をめぐる血液が多いやつほど、月の影響を受けやすいということか?)

思いつきついでに、たっぷりと血がありあまっていそうなテイラーを筆頭とした体育会系メンバーを脳裏に描いたヒューは、血の気の多さは無関係だなと即否定した。どう考えても、やつらが月に左右されるような繊細さを持っているとは思えない。

(ああ。でも、狼男を例に挙げるなら当てはまるか)

ざわざわと梢が鳴るたびに、はらりはらりと数秒遅れで舞い降りてくる枯葉が、弾力のある腐葉土の上に積み重なる。風の音に合わせて物陰を素早く移動する夜行生動物の光る目が、人間の気配に反応してピタリと止まる。

「忘れないで 忘れないで 十一月の五日を 焚き火の夜を」

 物思いにふけるヒューを呼び戻すように、その歌は流れた。

「焚き火を燃やすのに 薪束をおくれ
手斧に鳩小屋に 小槌に楔
少しでもくれないと 垣根を引っこ抜くぞ
一つもくれないと 二つ取ってくぞ
こちらに良ければ良いほど そちらにとっては都合悪いぞ」

声変わりの有無に迷う、中性的な声。

現代でこそ話題の人物を模った人形を街中で曳きまわし、篝火を焚きたくさんの花火を打ち上げる華やかな火の祭典だが、由来はガイ・フォークスを模った人形を曳きまわしたあと燃やすというアジテーションだった。そのため燃料となる板切れや木片類をもらい歩くのだが、今、隣で口ずさんでいるのはそのときに歌われたものである。

子供っぽくマザーグースを歌い上げるマイケル・サンダースに、ヒューは小さく笑った。

「もう、ガイ・フォークス・デイは過ぎたぜ」
「立冬も過ぎた」

明らかに機嫌を損ねた声色にヒューは隣を見ると、緩やかにうねる亜麻色の髪からもの言いたげな藍色の瞳が覗いていた。ハァーッと両手に息を吹きかける。恋人が何を求めているのかをその仕草でようやく察したヒューは、彼の華奢な肩に腕を回すとグイっと引き寄せた。

「寒いなら寒いって言えよ」
「寒い。でも寒いなか、ヒューとくっついて歩くのは好きだよ」

そのまま腕の中に囲うと、コテンと甘えるようにヒューの胸板に額をくっつけたマイケルは、満足そうに喉を鳴らす。その様子にヒューは眉尻をハの字にして肩をすくめた。

(「女心と冬の風」という諺は、男にも当てはまるかもしれないな)

ちらりとそんなことを思ったヒューは、日本でまさに「男心と秋の空」という似た諺が「女心」に変換され定着していることを知らない。

「この歌って、どちら側の歌なんだろうね」

マイキが呟く。前々からの疑問を訊くというより、ぽろりと口からついて出たような問いだ。

「王様か、反乱一味か。どちらにもとれそうじゃない? どこで焚き火をするのか、なんのために武器を集めるのか。この歌だけじゃわからない」

国王・議会爆破計画を企てた一味を貶めるための歌なのか。
圧政を敷く王を、玉座から引きずり下ろすための歌なのか。

あまり深く考えたことがなかったヒューは、そうだな……と簡単なあらましを思い出す。

「キリスト教信者にとって遺体を燃やされるというのは、復活の手段を奪われる最悪の事態なわけだ。それを民衆に向け見せしめにした。王の権威を知らしめるためだと思っていたが、純粋にガイ・フォークスを貶めるためという可能性もあるのか。……いや、民衆を脅して物を巻上げているわけだから、やはり王の横暴さを歌ったものだと思うぜ」
「火薬陰謀事件って、何年に起きたんだっけ?」
「ジェームズ一世の宗教弾圧に反発してだから……即位した翌年に宣言したから……一六〇五年か。起きたというか未遂だけどな」

マイケルの髪に引っかかった枯葉に気づいて指先ではさんだヒューは、取り除きながら遠い目をして答えた。ひるがえった葉はすぐ側の木の根もとに落ち着く。

「カトリック教徒のカリスマ的存在が仲間を集めてテロを計画。だが無関係な議員を巻き込むことに反対した仲間の一人が匿名で警告の手紙を出したことで国王側にばれ、地下倉庫に用意した火薬詰めの樽に点火する前に捕まった。その火付け役がガイ・フォークスだ」

首謀者でもなく、密告者でもない。それなのに祭り上げられてしまった有名な偉人。

「度重なる拷問にとうとう口を割り、翌年、獄死しなかった仲間と共に公開処刑。彼を含めた貴族ではない数名は『首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑』に処せられた。本人は首を吊られた時点で息を引き取ったそうだが、その刑を最後まで執行した人間も、見せつけられた民衆も、たまったもんじゃなかっただろうな。……もっとも公開処刑は娯楽の一つという記述が本当なら、逆に盛りあがった可能性もあるが」

「そんな奇特な人間はいないよ」

マイケルはぶるりと肩を震わせると、肩にまわされたヒューの腕を胸元に引き寄せてしがみつく。甘えではなく本気の怖がりように、真夜中の森でする話じゃなかったかと反省する。

「そうだな」

空いている手で恋人の頭を撫でながら、ヒューは歴史を振り返る。刺激的な娯楽という位置づけにでもしないと生きていけないほど、貴賤を問わずたくさんの命が失われた時代だった。

一五三四年にヘンリー八世が発令した国王至上法。カトリック教徒の国王と子供をもうけるには年老いた王妃キャサリン・オブ・アラゴンの間には、死産・流産を繰り返したあげく一人の女児メアリーしか育たず、男児の後継者欲しさに教義上赦されない離婚を求めてローマ教皇に掛け合った。しかし、離婚は王妃がいた経歴を無効とすることのため、神聖ローマ皇帝が甥であるキャサリンから、それでなくても兄アーサーの急死で若くして未亡人になってしまった彼女を金品欲しさに弟ヘンリーが娶ったという経緯があるのに、王妃の地位を剥奪するなど国際的な政治問題へ発展するとして許可が降りなかった。だが妃の侍女であったアン・ブーリンが御子を孕んだことで教団の許可を待てなくなり、新教を立ち上げることで離婚を可能とした。

それが現代に語り継がれる『ヘンリー八世と六人の王妃』の始まりで、その宗教が『英国国教会』だ。情勢はそれを境に、どんどん血なまぐさいものとなっていく。

カトリックへの信仰心が篤い側近のトマス・モアは、ローマ・カトリック教会からの離脱を反対したが、その結果ロンドン塔に幽閉されたのち処刑。修道院は解散。その財産は国が没収して貴族に下げ渡し、反対する僧侶も処刑された。ヘンリー八世は「英国国教会の教義はカトリックと変わらない」としたがプロテスタントに分類されるには違いなく、ルターの思想が民衆に広まるにつれカトリックの聖遺物や建造物への破壊活動が盛んとなり、修道院は荒廃した。
女児を出産したアンは陰謀の渦巻くなか冤罪で処刑。次に孕んだ侍女ジェーン・シーモアを妃にして生まれた待望の息子エドワード六世は、父の病も継いで先天性の梅毒に侵されていた。

ヘンリー八世の死後王位を継ぐも、遺志は側近に握りつぶされプロテスタント優遇政策をとり、礼拝統一法を制定し、共通祈祷書を発布して十五歳という若さで病死。その後遺言に則り長女メアリーが王位につくと、国教をカトリックに戻してプロテスタントを弾圧。だが情勢は変わらず、次の継承者であるエリザベス一世が再び国王至上法と礼拝統一法を制定して、英国国教会を確立した。この国王至上法がヘンリー八世の姉を曾祖母に持つジェームズ一世を王権神授説に走らせ、大勢の処刑者を出して、内乱の道へと進んでいく。

短期間ではあるがスペインの王妃を務めたメアリー一世が治世の間は静観していたスペインは、エリザベス一世が即位したとたんに無敵艦隊を送った。それに対し王女はスペインに恨みを持つ海賊を水軍に登用して迎え撃ち、見事勝利を収めると、世界貿易を手中にして華々しい功績を築いた。国内でも、犯罪抑止が理由のため劣悪な環境となったが、福祉国家の原点とされるエリザベス救貧法を制定するなど、総じて改革の女帝だった。小氷期による凶作や伝染病、戦禍による移民で増加の一途をたどる貧者の人口に、救貧法は後の国庫に打撃を与えるのだが、独身を貫いたことで宮廷経費が少なく済んだことからも『グロリアーナ』と称され敬われた。

そんな人気ある女帝に後継者と指名されたスコットランド王ジェームズ六世は、総てにおいて比較され、二つの政府の王となる初の快挙を成し遂げながら権力基盤は弱く、民衆の支持は全くなかった。浪費家の妃に子沢山で宮廷経費は大幅に増加し、有力貴族への恩寵を示す金品の支出も脆弱な国庫に打撃を与えた。軍事に金をかけずとも財政は逼迫して民衆の税金は重くなる一方。その不満の矛先を『魔女裁判』を施行することで変えさせ弱者の口減らしに走り、おもねる側近のみを優遇して対立者は捻じ伏せた。カトリック教・清教徒弾圧に加え、魔女法改正による魔女裁判。終わりの見えない公開処刑に、国民の感覚が麻痺していてもおかしくない。

「ベス女王は名声高き貴婦人だった
そしてスコットランドから 
健康そうなジェミー王がやってきた
彼らの一団に おとなしいバカどもに
石つぶてを雨あられと降らせ
彼らを王冠でガツンと殴ってやるんだ」

思考を呼んだようなマザーグースを選択して口ずさむマイケルに、ヒューは我に返る。
「こういう歌あったよね?」と顔を覗き込んできたマイケルの「相手してよ」と描かれた顔に、ヒューは思わず苦笑する。夜風に吹かれてふわりとそよぐ彼の髪を撫でつけながら頷いた。

「そう、そのジェミー王さ。イングランド王位を継いでからは、一度もスコットランドへは帰らなかったらしい。そこでのガイ・フォークスは英雄だ。王様の残虐非道な独裁政治と嫌われ具合がよくわかるよな」

感想を述べてから、ふと思い出したようにつけ加える。

「シェイクスピア率いる内大臣一座を国王一座としたのは、ジェームズ一世だ。運命の三女神ならぬ三人の魔女が出てくる『マクベス』は、ジェームズ一世のために書かれたといわれている。奥方の弟にあたるデンマーク王クリスチャン四世が来訪した際に、宮中で上演したらしい」

「デンマーク王? ならハムレットを上演したほうが絶対喜ばれたよ。なんでそっち?」
「いや、ハムレットは喜ばれないだろ。たしかに舞台はデンマーク王家だが、内容は御家騒動のあげく血筋がとだえて、ノルウェーのフォーティンブラス王が継いだってやつだしな」

『デンマーク人の事績』に載っているアムレートの武勇がモデルといわれる『ハムレット』。
しかし生き延びて王位を継いだ彼と違い、ハムレットは王家を滅ぼしている。デンマーク王の血筋でノルウェー王を兼任しているクリスチャン四世が、この話の内容を喜ぶとは思えない。
また作中でハムレットはデンマークを牢獄と評し、墓掘りはイングランドではみんな狂ってるから王子の気狂いは目立たないと主張している。不興を買うこと間違いなしだ。

それに何より、王に献上する舞台はやはり新作でなければまずいだろう。

「そんな話だったっけ?」
「台本を読んでないのか?」
「僕は劇中の王妃バプティスタだからね」
「たしかに、くわしく読む必要性はないな」

「――あのスコットランドの劇って、あまり好きじゃないんだよね」

恐ろしげに名詞を避けてぼやくマイケルに、ヒューは物語を思い出す。魔女にそそのかされ恐妻に追い立てられて、英雄から愚者へと転落した哀れな男の生き様。王位が呼ぶ陰謀と復讐の負の連鎖。恋愛面の欠けた悲劇を苦手とするマイケルらしい意見に、ヒューはフッと微笑む。

「お前は、恋をすることを生きがいとしているからな」

何気ない一言に、マイケルが唇を尖らせた。じとーっと睨む眼差しが棘のようにチクチクと肌に刺さる。もの凄く怒っている。だが、理由が分からない。困惑するヒューに彼は訴えた。

「否定はしないけど、なんで『僕』限定? 恋人に対して失礼だよ、ヒュー」

マイケルのごもっともな指摘に、ヒューは青ざめる。拗ねた口調からも相当機嫌を損ねているのが伝わったが、対処法はさっぱりだ。恋人を宥める方法を探しあぐねてうろたえるヒューに、マイケルがフゥーっと肺からすべての空気を追い出すように深いため息をつく。


「まあ、いいよ。動揺してくれてありがとう、ヒュー。今日だって、フォーダムが大変なときにこうして誘ってくれたわけだしね」


しょうがないなと妥協したマイケルの、言い放った内容に、ヒューは一呼吸置いて目を瞠いた。ユウリがベルジュと同室になると決まったときの懸念が蘇る。身体に緊張が走る。


「マイキから見て、わかるほどなのか?」

「嫌がらせを見かけただけ。あとは、部屋追い出し作戦成功とか言ってたかな」


「なっ、誰が言っていたんだ、マイキ!」


目の色を変えて明らかに殺気立っているヒューを、マイケルは静かに見つめる。


「――ベルジュにお悩み相談してるファンの一人。名前は知らない。でも、一人を取り締まったところで意味がないというか、逆に団結して嫌がらせが過熱するかもしれない。ベルジュのファンは僕の顔見知りだけでも三人はいるし、寮内限定で探しても大人数になるだろうから。それにしても、さすがはベルジュ。ファンの規模も歴代トップかもね」


クスッと笑ってヒューを見上げたマイケルは、肩をすくめる。中途半端な情報に、だがマイケルに詰め寄るわけにもいかずもどかしさから奥歯を噛みしめる。そんなヒューに、仕方がないなぁという表情でマイケルが抱きついた。退けようとするヒューの手を取って、耳元で囁く。


「自分で調べてみなよ。僕のことは気にしなくていいから。……大切な友達なんでしょ?」


間近に顔を見合わせる。ご褒美とねだるように指先で唇を軽く叩かれて、ヒューは苦笑した。

「ありがとな、マイキ」

軽いキスを交わしてマイケルをぎゅっと抱きしめる。マイケルはただ静かに目を閉じた。

 

 


翌日の夕刻、ヒューはユウリの置かれている現状を確認すべく、久方ぶりに三階に来た。

廊下にずらりと並ぶ下級生の列は角部屋に続いている。ちらちらとこちらに向かう興味津々の眼差しは鬱陶しい。じろりと居並ぶ下級生を睥睨すると、目が合うやつらは瞬間挙動不審となるも周囲に応援されたかのように居直り、胸を張る。ヒューは最後尾の下級生に話しかけた。

「相談があるなら俺が聞こうか? ここだと就寝時間に間に合わないかもしれないぜ」

「そんなことありません。いつもこれくらい並んでいますし、全員聞いてもらっています」

ヒューは苛立ちを募らせる。“いつも”……それがどういうことなのか、わからないヒューではない。階代表に就いてからの相談件数は、一週間を過ぎた辺りからまばらとなった。
駆け込みで切羽詰まった相談事が舞い込むことはあるが、頻繁ではない。それが毎日長蛇の列で、しかも同室者の居場所がなくなるだなんて、過去にはない異常な事態だ。

「へえ。つまり今日中にベルジュに話を聞いてもらえれば、それでいいということだな」

正面にいる生徒にそう確認して、頷くのをしっかりと見てから隣に目を移す。

「お前はどうだ? 俺が嫌ならテイラーもいるが。早く悩みを解決したいとは思わないのか?」
「ベルジュがいいんです」

少年は意気込んで断言する。彼らをベルジュのファンと決めつけたマイキの目は正しい。


「アダムス」


列の前方から名を呼ばれて見やると、リーダー的な存在感のある小柄な生徒が、キツイ眼差しを向けてきた。売られたケンカを買う気持ちでヒューが歩み寄ると、少年は全員の気持ちを代弁するように、きびきびとした口調で訴えた。

「相談する相手を選ぶ自由は、寮則で守られているはずです。ここに並んでいることが僕たちの意思の表れだと思ってください」

ヒューは一人一人に視線をあてながら列の先頭、扉の前まで来て足を止めた。

「なるほど。それはここに並ぶ者の総意なんだな。多少時間が掛かろうが、たとえ後ろ過ぎて今日中に聞いてもらえなかったとしても、お前たちはベルジュがいいんだな」

扉を背にし、下級生を端から端まで見渡してのその問いに、全員が肯定する。

ヒューは拳をきつく握りしめた。なにをやっているんだという怒りが渦巻く。
ユウリはベルジュが守っていると思っていた。二人部屋でますます仲が良くなっただろう彼らを見たくなくて、上の階には足を運んでいなかった。

ユウリは言わない。――――ベルジュにも。

その平等さの奥にある想いが愛しくて、相談されないことが悲しくて、とてつもなく悔しい。

 

カチッと内側からノブを回す音がして、背後の扉が開く。隙間に手を突っ込んで戸板をつかみ大きく開くと、ベルジュとの対話の余韻でゆるみきった顔をしている生徒と目が合った。
ヒューの粗暴な振る舞いとその形相を間近に仰ぎ見た生徒は、顔色をなくし、脱兎のごとく友人と思われる下級生のもとに駆け寄る。それを横目に、ヒューは室内へと足を踏み込んだ。

だが先頭で待つ生徒も入ろうとしたため、ヒューは足を止め、その少年を睨みつける。


「悪いが、ベルジュに用がある。俺の用件がすむまでこの部屋には入らないでくれ」


背後から文句が上がり、ヒューは苛立たしげに顔だけ振り返った。

「お前たちのなかに急ぎのやつはいないんだろう? これは階代表の急ぎの用件だ。権利の主張をするぐらいだ。どちらが優先されるかはわかるだろ。あとこの階には第三学年の生徒が住んでいる。うるさくするならそれなりの措置を取らせてもらうが、どうする?」

激昂を抑えたぶん声や視線に凄みが増したのが、全員ビクついて黙りこむ。それを確認することもなく、ヒューはバタンと苛立たしげに扉を閉めた。

 

「ずいぶんと横暴だね。それで、僕に急ぎの用とはなんだい?」


眉を顰めたベルジュと目を合わせる。相変わらずの貴公子然とした態度に軽く舌打ちした。

「ユウリはどこだ?」

「今日はまだ部屋には帰ってきていないよ」

ヒューはユウリの寝室を見つめ、ふと目を逸らし、さっさとソファーに座る。すぐに帰る気はないという意思表示に、シモンは意外という顔をして手際よくお茶の準備をした。その慣れた手つきに、お悩み相談の業務が毎日の習慣となっているのが垣間見え、ヒューは目をそばめる。

「紅茶でかまわないかい?」

「飲み物はいらない。単刀直入に聞く」

 ポットのお湯をティーカップに注ごうとしていたベルジュは、ぴたりと動作を止めた。つぎ口からお湯がこぼれる寸前で元に戻す。振り返るベルジュに、ヒューは口を開いた。


「なんで、ユウリを指名した?」


 目を合わせてきつく睨みつけるヒューの前で、ベルジュから表情が消え失せる。

「それを問いただすことが階代表の急ぎの用件かい?」

「私情がこもりすぎているというなら、外にいる奴らの件で話をしよう。たった今、確認したばかりだが、あいつらは相談する相手はベルジュだけと決めているそうだ。俺やテイラーの身が空いていようと、お前がいいらしい。そのことをどう思う?」


ベルジュは定位置となっているソファーの中央に腰をおろして、ヒューと向き合った。


スッと先に視線を逸らしたベルジュが、淡々と答えを返す。

「相談内容は多岐にわたっている。プライバシーに触れることも少なからずあるから、相談する相手は各々で選べる。それが寮則なのだから、僕がどうこういうことではないと思っているよ」

寮則が存在するには理由がある。生徒をフォローする階代表としての当然の心構え。
その規則があることで救われた生徒は、たぶん少なくない。だが……。


「たしかに寮則で決められているな」

ヒューは鼻で哂った。そうしてユウリに敵意を向けるやつらを受け入れて、ユウリのプライバシーを無視するのか? たしかに廊下は共用部分だ。応接間は階代表の業務に付随するものだ。けれどそれらはユウリにとって、毎日必ず通らないといけない生活の場だというのに。


「部屋に帰ってきたユウリは、何をしている?」

「すぐに寝室に入ってしまうからわからない。相談窓口の業務に、ユウリがわざわざ付きあう必要はないからね」


「つまりお前は、部屋に帰らないのも、寝室に閉じこもるのも、ユウリが自分の時間を有益に使った結果だと、そう言いたいんだな?」


腹立たしく思っていることを口にすると、ベルジュはしばらく沈黙してから息を吐いた。

 

「――――…………そういうことになるね」

 

ヒューはカッとなって拳を机に叩きつけた。机を蹴飛ばす勢いで立ち上がる。

「あんたの考えはわかった。じゃあな」

顔も見たくなくて、さっさと踵を返し部屋を出る。大股で歩き去るなか、背後で下級生のざわめきが追ってくる。明日にはこのことが噂されるだろう。それがなんだと心中で喚き立てる。

(ユウリを助ける)

幽霊騒ぎの件を思い出す。あのときは勝手に部屋の問題に首を突っ込んできたくせに、なぜこの状況で何もしないのか。わかりたくもないが、俺は俺でやらせてもらう。 

 

 

手始めに、とその足で一階に下りてきたヒューは、ずんずんと廊下を進み角部屋まで来た。

「おい、テイラー。話があるんだが」

苛立ちのままに扉を連打してノブを回し、部屋の住人に声をかける。その奥で展開する光景を視界に入れてから数秒後「邪魔したな」と謝り扉を閉めた。あの怒りを一瞬で吹っ飛ばすとは、驚愕とは凄まじい破壊力だ。それとも単に頭に血が上りやすいだけ、いやこの怒りは正当だ、となるとこれしきのことで動揺する自分の肝が小さいのか……と自問自答を始めたとき、バンっと内側から勢いよく扉が開かれた。頭突きを回避できたのはヒューの反射神経の賜物だ。

「誤解しないでくれ」

鼻息も荒く訴えたのは、同学年のケストナー。ヨレヨレの衣服に乱れ髪。極めつけの涙目。
情事の最中から抜け出してきたような形相に、実際に目にした光景もあいまって、仮定の訂正がうまくいかない。しかし、似た経験を乗り越えていたヒューは、まだ聞く耳を持っていた。

「そんな血相変えて言われると、誤解とは思えな……あ、いや、そんなことはない。誤解なんだな。わかった、信じる。わかったから、落ち着け」

ドバーっと涙腺が壊れたかのように目と鼻から水をたれ流すケストナーに、ヒューは叫ぶ。

「おお、なんだか男と女の修羅場みてぇ」
「誰のせいだと思ってるんだ!」

部屋からのっそり現れた上半身はだかのテイラーによる呑気なコメントに、二人は同時にキレた。一言一句違わぬ非難に、元凶の自覚がないテイラーはきょとんとして目を丸くした。

「誰のせい?」

猪首を傾げたテイラーが、後ろに話を振る。いつの間にいたのかテイラーのでかい図体に隠れて見えなかった普段着姿のルパートが、髪から湯気を出したまま慣れた様子で助言した。

「とりあえず、上に何か着たら? 見ているだけでこっちまで寒いよ。ほら鳥肌」

ルパートは長袖をまくり、本当に鳥肌が立っているのだと証明する。しぶしぶ自室に引っ込んだテイラーに、ヒューは頭を抱えた。

「いつもこんな感じなのか?」

嫌な予感にヒューが訊くと、ルパートがアハハと楽しそうに笑い声を立てた。

「まさか。テイラーの風呂上がりにかちあっちゃったケストナーの不幸を、たまたま目撃しただけだよ。僕がシャワールームにいるときだったから、暴走を止められなかったんだよね」

ヒューは下級生に啖呵を切ったときの自分の言葉を振りかえった。思わず唸る。
相談する相手を選ぶ自由は、たしかに必要かもしれない。


「あれ、アダムスがこの部屋に来るのは珍しいね」

「相変わらずの閑古鳥かと思いきや」


声のした方を振り返ると、差し入れらしき物を持参したパスカルとウラジーミルが部屋の前にたどりついた。あきらかに遊びに来たというノリだ。驚くヒューの前で、ルパートは二人を招き入れる。その慣れた様子にこれがいつもの光景なのだとわかると、感慨深いものがあった。

「立ち話もなんだし、中に入ってお茶でもどう?」

ルパートが憔悴気味のケストナーを気に掛けながら問う。ショックから立ち直らせるのは相方の役目らしい。頼りにしても大丈夫だと見極めたヒューは、話をするために部屋に入った。

「今日の相談者はケストナーだよ」

応接間には持ちよった雑誌を囲む三人の姿があった。冊子を手早く袋に片して場所を広げる。
空席をヒューとケストナーがうめると、パスカルが手近のティーセットで人数分のお茶を用意し始めた。勝手知ったるといった感じで、手つきに迷いがない。

「ケストナーがテイラーに相談っていうのはおもしろいな」

顔を上げたウラジーミルが、ちらっと正面に陣取るテイラーに目を留めてから、ケストナーを見やる。どういう意味だと拗ねるテイラーに、ケストナーがげんなりとため息をついた。

「ガードルード役の件で二人に愚痴を聞いてもらおうと思ったんだよ。相談すると気分が楽になるって評判だったから。でも、話の行き違いがあってね」

もとから解決は望んでなく、相談することで憂さを晴らしたかったのだと明かすケストナーに、たしかに決められた配役は動かしようもないし、目的がそれなら人選は正しいとヒューは納得する。しかし、テイラーは律義に相談内容を吟味して、解決に乗り出したのだろう。


「さっきのアレは、王妃を押し倒すハムレットの図だったわけだな」

ヒューが回想してぼやくと、聞き耳を立てていたウラジーミルがクッと噴き出した。

「テイラーがハムレット……喜劇だな」

パスカルの傍で紅茶の注がれたカップを配りながら「たしかに」とルパートが頷く。

「何度も押し倒されれば慣れるって、そういう問題じゃないし。そもそも、母親相手にあの殺気はありえないよ。圧死するかと思った。しかも、服着てないし」

げっそりとした面持ちでぼそぼそと苦情を垂れ流すケストナーに、ヒューは遠い眼をした。

「俺にはラブシーンに見えた」
「ズボンを穿いているか否かなんて、あの位置からじゃわからないしねぇ」

最後に自分のカップを手にしてウラジーミルの隣に座ったルパートに、ヒュー、ルパートと発言順に見やったケストナーは、青い顔で噛みついた。

「誤解だから。僕は女の子がいい。あんな、あんな、いかつい骨太マッチョは嫌だっ!」

「なりたい体型ではあるけどね。割れた腹筋……いいなぁ」
「筋トレしろよ」

羨ましそうにテイラーの腹部を見やったルパートは、自分のお腹をさすって呟く。
テイラーは鼻高々となってから、思い出したように前のめりになると、ヒューに話を振った。


「そうだ、話っていうのはなんだ?」
「えっ、ヒューが相談?」


深刻さとは無縁のテイラーに快活な口調で促され、いつも陽気な彼を羨ましくすら思いつつ、楽しい話ではないんだけどなと、今もどこかで一人避難しているだろうユウリに思いを馳せる。
ヒューはグッと拳を作ると、気合を入れて目を上げた。

「相談というか交渉だけどな」

どこから話そうかと迷っていると、ティーカップを受け皿に置いたウラジーミルが、肩をすくめてあっさりと内容を言い当てた。


「上の行列の件だろ?」


驚いたのはヒューだけで、その場にいた全員が「ああ」と納得する。気に掛けていたのは自分だけではなかったと知り肩の力を抜いたヒューは、さっきのやりとりを思い出して唇を噛む。

「あたりだ。……ほっとけるかよ」
「たしかに」

一致団結した確かな手ごたえに、ヒューはこの部屋に来た理由を振りかえり、行動は衝動的なものだったが選択は正しかったと自分を鼓舞する。

「それで交渉って、俺たちにできることがあるのか?」

打って変って真面目な顔で話を促すテイラーに、ヒューは戦いを挑む目で考えを述べた。

 

 

     2

 

 

「ジョン。僕って、そんなに魅力ない?」
「ハァっ!?」

憂いに満ちた藍色の瞳で悩ましげにのたまう友人に、ジョンは素っ頓狂な声をあげた。

木造建て本館二階の娯楽室。適度な自由が保たれた、緩い統制下で行われる上級生不在の演劇練習まっただなか。メトロノームが刻むリズムを頼りに曲を奏でる鼓笛隊の傍で、ジョンは「観劇の場」の黙劇をマイケルと練習していたのだが、いっきに集中力が吹き飛んだ。

突然の大声に、元よりぎこちなかった鼓笛隊の演奏が迷走して止む。

大勢の興味津々な視線と代理で現場の指揮を執るドナルド・セイヤーズのいつになく冷たい眼差しに、我に返ったジョンはとっさにマイケルの腕をつかむとそそくさとその場を後にした。

(やっぱり変だ。絶対、おかしいって!)

長い年月を使い込んで磨きあげられた床板をキシキシと軋ませて、無抵抗なマイケルを引き連れて足早に廊下を渡ると、行くあてもないまま階段を滑るようにかけ降りる。
朝からずっと彼から目を離せず問いだけが喉に詰まっていたが、ここに来て白雪姫の毒リンゴよろしく吐き出させられた気分だ。だが、爽快感からもハッピーエンドからもほど遠い。

「マイケル、おまえ、朝からおかしすぎ。昨日の夜、ケンカでもしたのか?」

人気のない食堂まで来てようやく足を止めたジョンは、息を整えながらやけにおとなしいマイケルを振り返った。普段の彼ならここに辿りつくまでに文句の一つや二つ、いや三つ四つは出ていてもおかしくはない。それが促してもだんまりとは、思考が読めないだけに空恐ろしい。

(これって、シカトか? でも、マイケルを怒らすようなことオレしたか?)

ジョンが悶々と頭を悩ませていると、マイケルがスゥッと手を伸ばしてきた。
その幽霊のような気配のなさ、前触れもなく首筋に触れた指先のひんやりとした冷たさに、ジョンの頭が漂白される。その間にも、マイケルはジョンの首に冷えた細腕を絡ませてくる。
状況理解に一分間。我ながら早いと自画自賛。

「バカ、何考えて…っ! そういうことはアダムスにしろって」

ジョンは滑稽なほどうろたえて、首に巻きく腕を引き剥がそうともがいた。魅力が色香を指すなら、マイケルは凄まじく魅力的だ。彼以上にフェロモンを放っている人間なんていない。
断言できるほど、ここ最近のマイケルはとくに強烈だ。

(カッコ悪すぎ。みっともなさすぎ。自覚あっても取り繕う余裕なしじゃ、救いもないし)

ジョンの動揺を完全無視で憂いに満ちた吐息をもらしたマイケルは、長い睫毛を伏せた。

「これはただの演技だよ。……だから、妬いてもくれない」
「何があったんだよ」

がっちりと首をホールドするマイケルの嘆きに、ジョンの口から情けない声がもれる。

昨夜、マイケルが部屋を抜け出したのは知っていた。帰宅に気づけなかったのは「いつもの逢瀬」と判断して熟睡していたからだ。逢瀬の翌日は誰が見てもわかるほど上機嫌で、ジョンはその恩恵にあやかれる一人なのだ。例を挙げるなら、平均よりも長い睡眠時間が必要なジョンがつい寝坊をしても、優しく起こしてくれるとか……つまるところ、それをあてに快眠していたのである。しかし陽も昇らない内に布団を引き?がされ、何事かと目をしばしばさせて起きてみれば、目の下に隈をこさえたマイケルとご対面。当然テンションは低空飛行。しかも精神不安定まで加速している。理由を問いただしたくもなるというものだ。

「べつに。ガイ・フォークスの処刑方を話したぐらいで。現代に生まれてよかったよね」
「…………。なんで、そんな話題?」

会っていたのはアダムスのハズだ。だが話題選択は傍迷惑な幹部生を思い起こさせる。

憔悴した面持ちで淡々と答えるマイケルの垂れ流しの秋波が、よからぬ虫を呼んでいる気がする。外れない腕は縋っているようで、ジョンは足掻くのをやめると深く息を吐いた。

(恨みますよ、アダムス)

第二学年の階代表を務める、どこか影のあるカッコいい上級生を脳裏に思い浮かべる。

そのとき、カツンッという足音が背後から聞こえた。


「怖がらせて、いい雰囲気になりたかったとか?」


割り込んできた第三者の声にジョンは青ざめる。気分は不倫現場を目撃された間男だが、旦那のいるマイケルに気にする素振りはなく、頭をもたげると物憂い声でそれに応対した。

「立ち聞き? プライバシーの侵害は嫌われるよ」

語調の静けさとは裏腹に細腕はますますしまり、ギューっと頚動脈を圧迫されたジョンは「グェッ」と蛙がつぶれたような声をあげた。虫はオレかよと内心つっこみギブギブとマイケルの腕をパシパシ叩くがビクともしない。見た目を裏切るこのバカ力はハッキリ言って詐欺だ。

「こんなところで話すほうが悪い。王役と王妃役の練習をしていたんだろ? ルシエーナス役の俺もまぜろよ」
「ずいぶんと積極的だね。珍しい。学園行事には興味がないって言ってなかった?」
「俺は、欲望には正直に生きることにしているんでね」

聞こえ始めた耳鳴りに焦るジョンをよそに、彼らの間を奇妙な緊張感が取り巻く。

(こんなんで……こんな緊迫感のなか落ちたら……間が悪すぎだろう、オレ……)

酸欠で遠くなる意識を躍起になって引き止めるも、とうとう息苦しさに負けてぐったりと力尽きたそのとき、まるで狙っていたかのようなタイミングで救いの手が現れた。


「その意見には僕も大賛成。でも嫌われてしまったら元も子もないと思うけど?」


キーンという高音にまぎれて聞こえてきたのは、馴染みの艶やかなテノール。独特の雰囲気を醸すその口調に、ジョンは条件反射でその人物を思い浮かべると、眉間に皺を寄せた。

(なんで、こんなところに?)

フッ、とジョンの身体を締めつけていた手が離れる。すでに支えられる立場と成りはてていたジョンは、頭の片隅でしまったと思うも足に力は入らず、ガクッと膝はくず折れ、身体は重力のかかるままに後ろに傾いた。ギュッと目をつぶり、尾?骨と後頭部を床に打ちつける衝撃に備えて身構えたとき、背後から腰に回された頑丈な腕にぐいっと引き上げられる。

一瞬の浮遊感。両の足裏がしっかりと地面につき、自分の足で立つ感覚に胸を撫で下ろして背後を振り仰いだジョンは、知人である上級生の冷笑を目の当たりにして凍りついた。

(だれ、コレ。こいつ、誰ッ!?)

解凍と同時にゾゾッと総毛立つ。意外に端正な面立ちの上級生の視線を追ったジョンは、制服を着崩したエマーソンの姿を見つけて驚愕した。いや、いつもならルシエーナス役と聞いた時点でピンとくるのだがそれどころではなかったというか、今も樹液に集るカブト虫の威嚇とダブる時点で正常じゃない。あぁ、一世を風靡したロック・グループの曲まで聞こえてくる。

(というか……まだ、あきらめてなかったのかよ)

入寮時から何かにつけてマイケルに絡んできた要注意人物。アダムスとの関係が進展してからはストーカーに近い傍迷惑な自己アピールもピタリと収まり、ようやく恋愛対象から外れたと安心していたのだが……どうやら早とちりだったらしい。存外にしつこい。

「そうですね。では、今のところはこの場を去ることにしますよ、ジェームズ」

気迫負けしたエマーソンはそう負け惜しみを吐くと、身を翻して足早に立ち去った。同時にステュアートの手が離れていき、ようやく一息ついたジョンは深呼吸をして彼に向き合う。
エマーソンを一瞥したステュアートは親指を頤にあて何やら考えていたが、その面持ちはいつも通りの人懐っこさを振りまいていて、ジョンの肩から力が抜けていく。


「ジェームズ……ジェームズねぇ……。その名をもつ有名人はたくさんいるけれど」

「イングランド王ジェームズ一世のことでしょうね。あいつにしては気の利いた譬えをする」

ワザとらしくジェームズ候補を探すステュアートに、ジョンはさっさと答えをつきつける。
ジェームズ・ステュアート。それが彼の悪名高き王の名だ。悩むまでも無い。

だが妄想を邪魔されたのが気に食わなかったのか、ジョンの断定に彼は片眉をつりあげた。

「君の目には僕がジェームズ一世に映るのかい? 自慢ではないけれど、僕は平均より背も高いし体躯も引き締まっているよ」
「容姿なんか知りませんよ。でも男色家で有名ですし。心当たりはありますよね」
「心当たり……でも僕には自分の命を狙ったばかりの人物を、いくら見た目が好みでも寝室に招くような豪胆さはないよ」
「なんですか、それ?」

眉を顰めたジョンに、ステュアートが意味ありげに微笑した。

「ガイ・フォークスだよ。髭が立派な赤毛の偉丈夫。ナイス・ガイ。有名だろう。プロテスタントの家庭に生まれるも幼少期に父を亡くし母の再婚でカトリックに改宗した彼は、卒業後に幼馴染と結婚してフランダースへ渡ると……ああ、フランダースは今でいうオランダ南部・フランス北部・ベルギー西部周辺のことだよ。ちなみに『フランダースの犬』は、ベルギーのアントワープが舞台で作者はイングランド人。当時のベルギー人には『この国の住人はこんなに非情ではない』と不評だったらしいね。君は鼻水たらして感動した口だろう」

「否定はしませんが、修正不可能な域にまで話がずれています」

「これは失礼。――軍に入ったフォークスは有能な指揮官の下で経験を積むと、対スペインのためにイギリス・フランスと三国同盟を結んだ年にはスペイン軍に占領されていたカレー攻略を指揮官として成し遂げた。兵士からは勇猛で博学、かつ高潔であると信頼を寄せられていたという。……王に捕らえられたときの彼は、三十五歳。寝室でどんな尋問を受けたのだろうね」

平然と、否、どこか楽しげに、思わせぶりに囁いた男に、ジョンは全身に怖気が走った。
マイケルが小声でなにごとかを呟いたのを耳にして我に返り、あわてて背中に匿う。

「鳥肌が立つようなこと言わないでください! 死者を冒涜したら呪われますよ」
「想像したのは君。したがって僕に責められるいわれはないよ」
「きっかけはあなたの悪趣味です。いいかげん周囲にばらまいている猛毒に気づいて制御してください。では、僕たちはこれで失礼します。まだ命は惜しいので」

踵を返したジョンは傍にいるマイケルの腕を取りその場を去ろうとしたが、一足先に回りこんだステュアートに逃げ道を塞がれた。ワルツを舞うような滑らかな動きで立ちはだかった彼からは、巣に引っ掛かる獲物を待つ蜘蛛のような目に見えない獰猛さが感じられる。

「ずいぶんと悲しいことを言うね。誤解を解くためにも相似点を挙げるけれど、芸術に興味があること、煙草嫌い。それぐらいのものだよ。家族関係は至って良好。女装癖はないし、賢い女性はむしろ好みだ。女医の命を奪うなんて考えるだけで憤りを覚えるよ」

女医という甘美な響きに、ジョンは最近悪友に見せられたお色気満載の写真集を思い出す。
チープな冊子ではなく芸術性に優れた書籍だったのだが、写真家の腕前もいいのだろう、モデルの魅力が存分に惹きだされたそれは、とても綺麗で壮絶に艶(なまめ)かしい、見ているだけで肌の質感が伝わるような写真だったのだ。華やかなカラーも、柔らかなモノクロも。

興奮で鼻の穴が膨らんだジョンに、ステュアートから生温かい……多分に哀れみを含んだ眼差しを向けられて、数秒遅れでそれに気づいたジョンはコホンと軽く咳払いをした。

「真っ当な意見ですが、女医の処刑なんてありましたっけ?」
「魔女の対象は民間療法に通じた女性で、主に産婆が多かったのさ。血は穢れ。なにせ処女の血を恐れて、初夜権が行使された時代だからね。出産といえば、それこそ死と隣り合わせの女性の戦場。おかげで立ち会う産婆は、尊崇の対象であると同時に恨みも買いやすかったのさ」

思考回路はどうであれ優秀で雑学豊富な上級生を見上げる。彼はまるで当時を生き抜いた人外のごとく淀みなく説明する。そういえば彼は接する度に何らかの妖気を放っている。

「天候不順による飢饉に黒死病の流行。これはこの地を取り巻く穢れのせいだ。穢れを原罪として持つのは女性。穢れに常に触れているのは産婆。さぁ、取り除かなければ――という理論かな。そんな世情にかこつけて貴族階級の男性医師が女医を弾圧した。いつの世も地位や利権に目が眩むのは男ということだね。女から生まれ、賢女に救われた命だろうに」

じつに嘆かわしいと首を横に振ったステュアートに、ジョンは目をぱちくりとさせる。

「女性好きに聞こえますよ」
「僕の好みの基準は、性別ではなくて美醜だからね」

ニッコリとステュアートが微笑む。見る人が見ればわかる一癖も二癖もあるような喰えない笑みに、ジョンは胡散臭そうに目の前の上級生を睨めつけてからハァっとため息を吐いた。

「つまり、優柔不断の節操ナシということですね」

「それはイケナイことかい? よぉく考えてごらんよ。整然としたものから新しい別のものは生まれない。未知のものは混沌からしか生まれないんだ。優柔不断は選択肢がたくさんあるからこそ起こりえる。解決しようとしたとき新しい何かが生まれるかもしれない。つまり、優柔不断はヒラメキの温床(おんしょう)になりえるのだよ。ヒラメキは生きていくための智慧(ちえ)のひとつ。君はそれを優柔不断はよくないという世間の風評だけで切り捨ててしまうのかい? 僕にはとてももったいなくて捨てられない」

滔々と力説するステュアートに、ジョンはコメカミをクイクイと軽く揉む。
彼の言い分はたしかに正論のような気がしなくもないが、それ以前に肝心の論点がずれている。しかもわざとずらしている様子がありありで、ツッコミを入れる気すら削がれる。

「たしかに、一つの視点に縛られ引き返すこともできずに、周囲を不幸に陥れるという状況があることは認めます。でも恋愛感情に限って言えば、多情は不幸を呼びますよ」

同じ要領で話をずらし論点を戻すと、ステュアートはフフッと楽しげに目を細めた。

「そう? 心の繋がりは多ければ多いほど人生が豊かになると思うのだけれど。でも、たしかに命がけの恋人はひとりで十分だ。そもそも命は一つしかない」
「命がけって、またずいぶんと大袈裟ですね」

これは、それだけ厄介な相手を好きになるという宣言だろうか。それとも単なる多情の言い訳か。後者ならいいが、もし前者だったりしたら身の破滅だ。巻き込まれフラグが見える。

「そんな顔して、妬いているのかい?」

ステュアートにムニュッと頬を両手で挟まれ、ジョンは不愉快丸出しにパシッとその手を払いのけた。大仰に手を遠ざけた彼の面白がっている顔を、ジョンはキッと睨みつける。

「呆れているんです。あなたの人生ですから僕は口を出しませんが、あなたの人生計画から僕たちの存在は外してください」
「楽しいことは嫌いかい?」
「価値観が違いすぎです。あなたが指す幸福は僕にとって苦痛でしかないし、僕の求める幸福はあなたには苦痛でしかないと思いますよ」

「君が僕に人生の辛さを教えてくれるのかい?」

前髪をかきあげる仕草によって見えたステュアートのなぜか嬉しそうに輝く瞳に、説明のつかない恐怖を覚えたジョンは、本能の赴くままに後退って彼から距離をとった。

「そんな役目はどんなにお金を積まれようが御断りです。あなたはともかく僕はサディストでもマゾヒストでもないので。そういう趣味の奇特な方を頼ってください、お願いします。きっと懇切丁寧に教えてくれますよ」

「君の向上心の守備範囲は狭いね。価値観の違う人物との交流も、自分を成長させるには重要だよ。それに自分では思いもよらない解決方法を見出してくれる可能性もある」


ステュアートは誘惑するようにジョンを……ついで、その肩越しを見つめた。


「試してみないかい? マイケル」


突然の名指しに、ジョンは弾かれたようにステュアートを見上げた。背後を振り返る。
うっすらと頼りない笑みを浮かべた友人は、一歩、二歩と足を運び、ジョンの隣に並んだところで、トンッと両足をそろえた。


「同性愛の先輩として?」

「そう。天使の声と悪魔の声。どちらを聞きたい?」


嫣然と微笑むステュアートから、見えない糸がマイケルへと伸ばされていく。

「やめとけよ、マイケル」

マズイ。今のマイケルには毒の中和なんて無理だ。直に影響を受けてしまう。蝕まれる。

「信用ないなぁ。選択肢は多いほうがいいと君も思うだろう?」

もっともらしい言葉だ。早くこの場を去らなくてはと思うのに、それができない。
糸の先に、本当に救いがあるとは限らないのに……。 

「天使だったら天国行きで、悪魔だったら地獄行きか。あなたの天使は僕になんて?」

多大な不安とほんのわずかな期待とで胸を高鳴らせるジョンをよそに、マイケルがふわりと亜麻色の髪を揺らして話に乗る。

「ソノ気にさせるなら蝋燭程度の薄明かりで背徳的な空間を作るといい。お香も手だよ」

助言に相応しい親身な面持ちで、経験豊富な先輩がそうのたまった。内容さえ聞こえなければ面接にも近い、どこか硬い雰囲気を醸しておきながら言っていることは妖しすぎだ。
お香……蝋燭……背徳的……って、犯罪教唆!?

「たしかに天国」
「それのどこが天使の声なんですか! どう聞いても悪魔の囁きにしか聞こえませんよ」

期待したのがバカだった。小さく笑みをこぼすマイケルの声で我に返ったジョンは、今度こそ立ち去るべく踵を返す。が、それを引き留めるようにマイケルが再び問いを口にした。

「悪魔からの助言は?」

ステュアートは意味深に目を細め、口許をつりあげた。雰囲気がガラリと一転する。視角が固まり聴覚は奪われ、時間感覚は麻痺して……まるで麻薬を嗅いだような……?


 ――――否、猛毒!


「マイケル!」

肩を引き寄せようと伸ばしたジョンの手は、真正面に立つステュアートの腕に阻まれる。
その手でマイケルの頤を捕らえた男は、軽く持ち上げると暗い藍色の瞳を覗きこんだ。


「君はオフィーリアのようになってはイケナイよ」


水面に落ちる雫のように、落ちた瞬間、ポチャンと跳ねる。
タプンと溶け込み、波紋が広がる。

「それが、悪魔?」

やけに普通だ。違う、意味不明だ。誰かに解説を求めたいけど、誰に頼めばいいのかもわからない。ただ胸騒ぎがする。――落ちてきた雫は、どんな成分を含んでいた?
忠告に、真顔でステュアートを見つめていたマイケルはしばらくして複雑な微笑を浮かべると、ゆっくりと後ろに下がって顔に触れる手から逃れた。

「ならないよ。僕は失恋しても新しい恋を見つけられる。……初恋ってわけでもないし」
「そう? じゃ、そのときは僕を指名してね。幸せにするよ」

彼は投げキッスをすると軽快な足取りでこの場を去る。物陰に姿が隠れた途端、ドッと疲れが足腰にきた。手近な椅子を引いて座り、ぐったりと背もたれに寄りかかる。隣で椅子を引く音がして見やるとマイケルも腰を下ろしていた。遠くの方から鼓笛隊の演奏が聞こえてくる。


(つかれた)


人間の気力や体力を餌とする悪魔がいるなら、あいつは高い確率で悪魔祓いの標的にされるだろう。要注意人物と候補に挙げられ、見張りがつくことうけあいだ。 

「絶対、あいつはヘンだ。アレだけはやめとけよ、マイケル。違いすぎる価値観なんて、刺激物を通り越した毒物だからな。人生狂わされるぞ」
「僕は大丈夫だよ。それより、ジョンこそ気をつけなよ。……もしかしたら、諦めたほうがいいよ、が正しいのかもしれないけどさ」
「何を?」
「ステュアートとの関係。向こうは君に気に入られていると思いたがっているみたいだし」

心ここにあらずの風情で嫌な指摘をするマイケルに、ジョンは苦虫を噛み潰したような顔になる。以前、ステュアートからなされた「お気に入り」宣告は、不本意ながら覚えている。否、耳にこびりついて抹消できない。そのしつこさと不気味さはストーカーそのものだ。

「お前経由で、な」
「腐れ縁になりやすいよネ。そういう関係」
「ハハ、冗談。脅すのはヤメヤメ。しかも真顔で」

冷やかしでも嫌がらせでもない単なる感想が、逆にジョンを不安に陥れる。
笑い飛ばしはしたがその顔は引きつり、どう見ても成功しているとはいえなかった。

 

 

「ずいぶんとご機嫌だな」

本館と新館を繋ぐ短い渡り廊下で、ステュアートは背後から声をかけられた。緩んだ口許を引き締めて足を止め、ゆっくりと振り返り、相手の視線を受け止めてから微笑む。
本館の扉の脇に、いつのまに現れたのか青黒髪を首筋で束ねた長身痩躯の生徒がいた。

腕を組んでこちらを見る彼は、ステュアートの理想を具現化したような存在だ。バランスよく鍛え抜かれた肉体は柳のようにしなやかで、着崩した制服の下に隠された美の結晶はつい手を伸ばしたくなるほどの極上品。飄々とした雰囲気と隙のない狩人のような姿勢もいい。

ヴィクトリア寮の異端児、コリン・アシュレイ。

身体能力に秀でた彼は、悪魔の申し子と目されるだけあり気配まで自在に操れるという。
ステュアートはそれをたった今、目の当たりにした。噂は真実だ。他にも学園一の明晰な頭脳でオカルトに心酔し、物事を望むままに操る能力は悪魔並みとあるが、つまりずば抜けて好奇心旺盛で鋭い観察眼を持っているということだろう。混沌に興味のある者としてとても気になる存在だが、寮での権限を持つ立場上こちらから接触を図るのは得策ではないと控えていた。

その彼が話しかけてくるとは願ってもない機会だが、どんな楽しい了見なのか。

「やぁ、アシュレイ。敵陣視察かい? それともミイラ取りがミイラになったとか? ミイラの粉は万能薬として知られていたようだけれど、不老長寿の効能はなかったらしい」
「聞き間違えからできた偽薬だからな。防腐剤として塗りこまれた乳香に薬効があるのは確かだが、不老の効能はない」
「イヤイヤ、偽薬とは素晴らしい妙薬だよ。ただの思い込みは毒にもなるけど偽薬は良くなると信じて身体に取り込むのだからね。現代にこそ効力を発揮する万能薬さ。ストレス解消でお肌は艶々、エネルギッシュになりまさしく不老。もっともこの時代はミイラの粉末を呑むこと自体がストレスになるだろうから使えないけどね」

そもそも一般人には入手も困難だ……と軽口を叩きながら、ステュアートは素早く思考を巡らせる。可能性として挙げられるのは、今しがた会っていたマイケル・サンダースについての情報だ。アシュレイはなぜかあの子の恋人であるヒュー・アダムスがお気に入りで、お化け屋敷として知られる霊廟の鍵も譲渡したのだ。おかげで二人は甘い時間を過ごせるわけだが、最近のマイケルはどうにも様子がおかしい。それはアダムスも同様なのだろうか。

「相変わらずの道化ぶりでなによりだな」
「お褒めに預かり光栄の至り。珍しく君から話しかけてくるからつい素が出てしまったよ。それで僕に何の用だい? 僕の心当たりは一つで、あの子たちにはそれぞれ先約がいるから代わりに僕がお相手するよという申し出くらいしかできないけれど?」

話を振ると、アシュレイは鼻で笑って片手を翻した。

「あんたのお気に入りに興味はないから、安心しろ」
「そう? 君がご贔屓の彼は元気かい?」
「気になるか?」

切れ長の眼差しが意味深に向けられた。一重の奥にある青灰色の瞳が底光りする。

獲物を値踏みするような視線に、淡い興味しかなかったステュアートは話の矛先を変えた。

「いいや。単なる話のきっかけ作り、ご挨拶だよ。世渡りには必要な技術だろう? それで、誰に何を頼まれたのだい?」
「あんたのお目付け役から伝言だ」

お目付け役に該当するのは今のところ一人。ただ、神経質なトーマスが色々と噂の絶えないアシュレイを頼るとは到底思えない。――だが、内密にしたい黒事件が勃発したなら話は別だ。

「お代は?」
「ただの点数稼ぎ」
「へぇ。君ならその頭脳だけで幹部生の地位は安泰だと思っていたけれど、最近は面倒見の良さも加味されるようになったのかな。それで、トーマスはなんて?」
「仕事をほうって遊びに行くな。早く戻って来い」

アシュレイが口調を真似て伝言を再生する。たいした用件ではない。肩の力を抜き、これはアシュレイから進んで探しに来たと考えるのが妥当だなと結論づけると、下級生を観察する。

「持つべき者は真面目な相棒だね。ご苦労様、アシュレイ。僕からも何か払おうか?」

目的を知りたくてあえて申し出ると、彼はニッと口許に笑みを刻んで腕を組んだ。

「そうだな。せっかくの申し出だからありがたく頂戴しよう。質問に対する答えを一つ」
「どうぞ」
「あんたにとってのオフィーリアとは何だ? 妖精か、それとも娼婦か?」

マイケルへの忠告を聞かれていたらしい。見える範囲に人影はなかったから、彼は聴覚も超人レベルということか。つくづく末恐ろしい人才だ。是非とも世の為人の為に尽力する者と行動を共にしてほしいと、できれば慈悲深くあってほしい運命の女神につい祈りを捧げてしまう。

彼を魅了できる聖人などいないというなら、せめて世界を震撼とさせる大悪党と組ませることだけはやめてほしい。平淡な人生は味気ないが、阿鼻叫喚の世界は御免こうむりたい。


「オフィーリアは……」

純粋な恋というにはそれぞれの立場に縛られて複雑化している二人の関係を思い浮かべて、ステュアートは答える。

「時代の正義に囚われた聖女。その性質が仇となったために狂い、結果、実を結ばない恋に命を捧げた乙女かな。妖精でも娼婦でもない、双方の属性を併せ持つ女性だよ」

それにしても、彼らはどういう現状にあるのか。見ていて分かることもあるにはあるのだが、状況把握はアシュレイが上だろう。しかし興味はないと口にした手前、追求はできない。

「穢れのない妖精のイメージはフォーダムにもあるけれど、彼に恋愛色は出せると思うかい?」

スミレの花を思わせる東洋の少年。アダムスの想い人として話題にもなった。恋の秋波に喩えられる仄かな香り、清楚だからこその色気はあるが、自在に操れるような性質ではない。

「ベルジュ次第だな。あの執着振りならうまくいくだろう。それより重大な問題点が他にある」
「というと?」
「あの恵まれたお貴族サマは、はたしてハムレットに共感できるのか。下手な俳優は、役を解釈しきれず大仰に演じるというぜ」

ベルジュの推薦者として、その指摘には痛いところを衝かれたと苦笑するよりほかない。
見当違いなら適当にあしらうのだが、ステュアートもその点は気づいたうえで黙視していた。

ハムレットの狂気。――狂った振りを続けるうちに本当の狂気に呑みこまれてしまった、賢くも愚かな王子。国の誉と謳われたハムレットの愚かさは、胸の奥深くに押し込めていた灼熱のマグマのような怒りが、父の霊に触発されて噴き出したものだ。
理知的なのはベルジュも同じ。あとは自分を律しきれないほどの怒りを彼が想像できるかどうかなのだが、それを知らずとも彼なら多少の違和感は存在感で打ち消せるだろうと楽観していた……が、やはり考えが甘かっただろうか……。

「演技が下手でもハムレット役をやれば大人気、ともいうよ」

ステュアートが苦し紛れに言い返すと、アシュレイはクッと笑った。

「大根役者を『ハム』と呼ぶ所以だな。今度の劇がどちらに転ぶか、お手並みを拝見しよう」

所詮は他人事と踵を返したアシュレイは、飄々とした足取りで本館へと消える。

「お手並み拝見か。指揮は下級第四学年の仕事なのだけれどね」

スラリとした後ろ姿を最後まで見送ったステュアートは、ひょいと軽く肩をすくめて方向転換すると、トーマスがいると思われる本館の自習室へと足を向けた。

 


         *

 

高い天井に生徒たちの話し声が反響する。

夕刻の食堂。柔らかな橙色の明かりに包まれ和気藹々と食事する同学年の面々を見回して、フォークで突き刺したピクルスを見下ろしたマイケルは、フゥと気怠いため息を吐いた。

テーブルをいくつか挟んだ先に、ヒューの広い背中が見える。最近は夕食も一緒だったけど今日は別々だ。理由は簡単。フォーダムの傍に行けと、マイケルが促したから。

ヒューと同じテーブルには階代表とその補佐が集っている。ベルジュの姿だけがない。
おそらく過激な心酔者の対応に追われているのだろう。顔色の悪いフォーダムを案じる気配がこちらにまで伝わってくる。とくにヒューの苛立ちと憂いがビシビシと……。

(まあ、たしかに同情はできるけどね)

独占出来ないゆえにやつあたる彼らにも、ベルジュを遠ざけてなお危害が及ぶ上級生にも。
所詮は他人事。でもヒューの心を捕らえて離さない存在にむかつく心情は彼らにより近い。

一つ違うのは、心の浮気を許すことを前提に恋人になれたこと。フォーダムに嫌がらせなんてすれば、バレた時点で関係は破棄だ。やつあたりなんて出来るわけがない。

(今のヒューの頭には、僕のことなんてまったくないんだろうな)

配役が決まってからこっち、彼らは徒党を組んでフォーダムを標的に動き始めた。日頃の鬱憤まで晴らすかのように嫌がらせに精を出し、団結力を強めている。お優しいフォーダムはベルジュに告げ口をしていないようだけれど、仲間内にはバレバレだ。おかげでヒューはキレる寸前。迷惑極まりない。ふとステュアートとの会話が頭をよぎり、問いが口からついて出た。

「購買に、お香ってあったっけ?」

マイケルの隣で気もそぞろに海老のフリッターをもそもそと咀嚼していたジョンは、その言葉に手元を狂わせた。ガシャッとフォークで皿を突きゴホゴホッとむせる。偶然ジョンの隣で食べていたおっとりタイプのリッキー・チャムは「わぉっ!」と声をあげて身体を捻った。手には料理の乗った皿。反射神経と瞬発力を総動員して持ち上げ、食事を死守したようだ。

「びっくりしたぁ。そんなにがっつかなくても、ご飯は逃げたりしないよ」
「お前に食われると思ったんじゃないか?」

カラカラ笑うポッチャリ体型のリッキーに、彼の正面に座るノッポなエドモンド・オスカーがニッと笑ってからかう。リッキーは即座に笑うのをやめると、溜めた勢いを攻撃に転じた。

「勝手に食べないよ!」
「断わったら食べるのかよ」
「食べるよ。オスカーだって、僕のおやつを食べるじゃないか」
「おやつとおかずを一緒にするなよ」
「おやつは別腹?」
「そういえば、アレも不思議だよな。どうして入るんだか」

喧嘩になると思いきや、楽しげなじゃれあいにたどり着く。二人のやりとりを呆れ顔で眺めていたセイヤーズが、眼鏡の奥にみえる薄緑色の瞳をマイケルに向けた。

「お香に覚えはないが関連商品ならいくつかあったな。どういった用途を予定しているんだ?」

「お香に、匂いを楽しむ以外の使い道なんてあるか?」
「関連商品と言っただろう。部屋の除菌・消臭スプレーに、衣服の皺伸ばし。体臭を抑えるスプレーも何種類かあったはずだ」
「……そんなに臭うか?」
「食事中に嗅ぐな。自分の体臭を嗅ぎ分けられたら末期だ。――個人差はあるだろうが、成長期の男子寮だからな。クリーニングが入るとはいえ、鼻がよければ不快に感じる臭いもある」

腕を上げてにおいを嗅ぐオスカーと食事の手を休ませないセイヤーズの会話を聞き流して、マイケルは蝋燭を掲げスプレーの発射口をヒューに向けて迫る自分を思い浮かべた。

「別の意味で怪しすぎ」

思いっきり眉間に皺が寄る。それに、実行したら火炎放射となりアッという間に地獄の惨劇だ。たとえ上手くいっても大道芸。拍手はもらえるかもしれないけれど色気からはほど遠い。

「怪しいって、何が?」

問いかけに目を上げたマイケルは、食事の手を止めた仲間の怪訝な顔を見て固まった。

「え、あ、別に……独り言。お香のことは何となく気になっただけだから深く考えないでよ」

言葉を濁してヒラヒラと掌を振ったマイケルは、フォークを手にとり食事に専念する。
さっきまでまったく食べる気がしなかったのだから、少しは気分転換になったらしい。

(これが仲間の距離だよね。独占欲はないから切なさとも無縁。恋とは違うよ、ヒュー)

再び鬱屈とした空気を纏うマイケルに、オスカーとセイヤーズは難しい顔つきで目配せする。

「欲しがっているのはお香なんだろう? それなら勧めるのは香水じゃないか?」
「香水には好みがあるし、体質によってはアレルギー反応がでてしまう匂いもある」
「まあ、嫌な臭いもひとそれぞれだしな。ところで、今つけている香水はお前の好み?」
「ああ、そうだ。似合わないって言いたいのか?」
「なんだよ、つっかかるなあ。柑橘系は気分を前向きにさせるっていうのは迷信か?」
「……。君にアロマテラピーの知識があったとは、意外だな」
「知識ってほどでもないだろう。お前の方が詳しいと思うぜ、医者?」
「べつに僕が知らないとは言ってない」

ある意味仲睦まじい会話をテンポ良く交わしていると、突然、リッキーが口を挟んだ。

「あ、ベルジュだ」

フォークを持つマイケルの手が固まる。全員の視線が申し合わせたかのようにそちらへと向かった。他のテーブルでも申し訳程度にチラ見しながら、食事の手を動かしている。

ベルジュはフォーダムに歩み寄って何事かを告げ、皿を手に立ちあがったフォーダムをエミリが引きとめてその皿を受け取り、手を振る。個人的なことかもしれないと思い至ったマイケルは、不機嫌なヒューを見てしまうのが怖くて目を戻した。感嘆するリッキーが視界に入る。

「ハムレットとオフィーリアか。日頃から雰囲気作りを心がけているなんてさすがだよね。あの優雅なエスコート。憧れの王子様そのものだよ。事情を知らないと誤解しそう」

その発言にメンバーは揃って神妙な顔つきになるも特にコメントはせず、彼らにあまり思い入れのないオスカーだけがセイヤーズを気にしながら「そうだな」と相槌を打った。


 ――――オフィーリアにはならないように……。


マイケルはステュアートからの忠告を思い出して、わずかに顔を歪める。

 

オフィーリアにはならない。
オフィーリアにはなれない。

 

だって、ヒューの想いはここにはない。

 

「妙なこと、考えてないよな?」

ハッとして顔を上げると、心配そうなジョンと目が合った。

「妙なことって、何?」
「変態の戯言なんて真に受けるなってことだよ」

真剣な顔で忠告するジョンに、何をそれほど心配しているのかとマイケルが疑問に思ったとき、席を立つステュアートを目の端に捕らえた。衝動的に立ちあがる。
ガタッと椅子が鳴りまたもや仲間の視線を集めたが、マイケルに気にする余裕はない。

「先に戻るね」
「戻るって、マイケル! ちゃんと食えって。残し過ぎだろ、コレ」

喚くジョンの声が背後から聞こえてきたが、身体は突き動かされるように彼の後を追う。
テーブルの間をすり抜けて食堂を飛び出すと、部屋に戻る生徒たちを次々に追い抜き、隠れてしまった背中を求めて連絡通路へと続く扉を開けた。


「ステュアート」


名を呼ぶと、新館の扉の前で彼は足を止めた。振り返り、呼び止めたマイケルを見る。
待ち構えていたかのように。わかっていた未来をなぞるかのように。

「どうしたんだい、マイケル?」

優しげな問いは、天使のものか悪魔のものか。――わからない。
でも、願いを叶えるために縋る手はこれしか知らない。

「相談したいことが、あるんだけど」

決意に満ちた藍色の瞳を、まっすぐに向ける。
ステュアートは目元に艶を刷くと、良くできましたとでもいうかのように微笑んだ。

 

 

部屋は鏡のごとく主の内面を映すというけれど、多種多様な物で溢れ雑然としているのに隠れた法則があるかのように絵になっている芸術的な部屋というのは、どう判断しよう。

応接間のソファーに座ってぐるりと部屋を見回しながら居心地の悪さを感じていると、鼻先をかすめるように抽象絵画がプリントされたマグカップが差し出された。手前に置かれる。
フワッと鼻腔をくすぐる甘い香りに、マイケルは意外に思う。

「ホットチョコレート?」
「おいしいよ。僕のオススメ」

向かいあわせの椅子に座ったステュアートが、愛想良く勧めながら斬新な形の器に口をつけると、舌先で転がすようにして少しずつ味わう。その表情はとても安らいでいて幸せそうだ。

(よっぽど好きなんだ)

マイケルもならってマグカップを手に取り、少しだけ口に含む。人肌よりやや熱めのトロッとした液体は、ほどよく甘く、胸に渦巻く焦燥感を少しだけ忘れさせた。
コクン、と飲み込んでホゥッと息を吐く。

それを見届けたステュアートが、ゆったりと口を開く。


「これにはね、ソノ気にさせる成分が入っているんだ。世に言う媚薬というものかな?」


マイケルはマグカップを手に硬直した。ゆっくりと食道を通り胃に落ちていく液体の生温かさが、激しい焦りを呼ぶ。取っ手を持つ掌は汗ばみ、心なしか身体もほてり始めている気がする。

嘘か本当かを見極めるためというよりも単純に信じたくなくて、目の前で平然とその液体を口にするステュアートを縋る目で窺っていると、彼はニコリと微笑んだ。


「残念」

「え?」
「顔が強張っている。君は本当に一途だね」


置物にも見える器がテーブルに置かれた音で、マイケルの緊張が解ける。ドッと脱力して背もたれに寄りかかると、面白そうに観察するステュアートにふつふつと怒りが沸いてきた。

「騙したんだ?」
「嘘はついていないよ。この香りにはドーパミンの分泌を促す作用があるからね。古代アステカ文明には、カカオを他のハーブと調合して作った媚薬が存在していて王様が愛用したというし。残念なことに、そのレシピは帝国が滅んだときに失ってしまったけれどね」

悪びれずに弁明する上級生に、マイケルは吐息をもらして手元のカップに口づけた。牛乳を溶かしバニラエッセンスで風味をつけたホットチョコレートは思いのほか癖になる。

「太陽神を崇めていたアステカ族は、生贄に人間の心臓を捧げていたんだ。それも毎日ね。当然奴隷だけでは足りないから、近隣部族へ戦を仕掛けては、捕虜を得て儀式をしていたんだよ。その近隣部族も、年一回、奴隷のなかで一番の美男を四十日間王として祭り上げてから、心臓を神に捧げるという儀式をしていたけどね。もったいないと思わないかい?」

いきなり血なまぐさいことを話題にしたと思ったら、もったいないを繰り返すステュアートに、この場にジョンがいれば話題を変えるなり、先を読んで話を進めるなりするだろうに……と、ぼんやりとした頭で思う。どうにもつっこみどころがわからない。

(そういえば、食器をそのままにして来たけど、きっとジョンが片付けてくれたよね)

あとで礼をしないと……と思考を飛ばしていると、ようやくステュアートが話を進めた。

「だからスペインが攻め込んだとき、奴隷として捕らえられた人々の数名は率先して手を貸したそうだよ。もっとも『白い神が帝国を滅ぼす』という予言があったことから、スペイン人を神と思ったアステカの王は、抵抗せず、むしろ財宝や奴隷を贈って歓待したそうだけどね。しかし、結局戦を仕掛けて王は捕虜となり、帝国はスペインの植民地となった」

「つまり、アステカ帝国を滅ぼしたスペインは、悪習を断った救世主ということ?」

マイケルの合の手に、ステュアートは軽く首を傾げた。

「救世主かな? 生贄の習慣は断てたけれど、奴隷として過労死させた人数は一日一人ではすまないからねぇ。耐性のない病原菌が持ち込まれて感染した説もあるけれど。それは置いといて、たぶん当時の住人には神というより欲深い悪魔に見えていたと思うよ。――財宝を贈ったことが裏目に出たんだ。宝の山に目が眩んだ支配者は奴隷となった彼らを使って鉱脈を探し、また王が気に入り貴族の嗜好品ともなったカカオの栽培にも力を入れた」

チンッと、ステュアートがカップの端を弾く。

「スペインは他にインカ帝国も植民地としていて、財宝と一緒にカカオを持ち帰り一世紀近く王侯貴族や僧侶の秘蔵の飲み物として――庶民にも少しは広まったのかな……とにかく国内で占有していた。けれど他国と婚姻関係を結んだ王族が国から持ち出したことで解禁となり、欧州全土へと広まった。この風味は癖になるからね。君も好きだろう?」
「砂糖の加減にもよるけど」
「広まった先でもカカオは人々を魅了して、権力を象徴する飲み物の仲間入りをはたした。また双方の帝国でカカオの種を貨幣として扱っていたことから、その文化も欧州に伝わり、ますます需要に拍車を掛けた」

そこでいったん区切ると、彼は意味深に続ける。


「奴隷貿易の始まりだよ」


変わらない声音の根底にある響きに、マイケルはゾッとする。

「当時の対価は、カカオの種を百粒で奴隷が一人だったかな。カカオの果実に種は二十粒から六十粒だから、果実で数えると二個から五個。一本の木から取れる実は十個から五十個だから、奴隷を買って栽培する木を増やすほうが儲かるという計算だね。だから、現地の奴隷が死んだら自国の奴隷を補充するなどして、こぞって栽培に励んだんだ」

「――あの時代、奴隷制度は当たり前だったから」

非人道的な仕組みにマイケルが眉を顰めると、ステュアートは意味深に哂って肩をすくめた。

「あの時代、ね。現代にも奴隷扱いされている子供はいるよ。攫われたり売られたりして集められた貧しい農村の子供が、賃金も貰えず、ときに体罰を受けながら奴隷のように働いて、防護服ナシに危険な農薬を浴びながらカカオを栽培している。一部の地域だけどね」

 淡々とした口調で話すと、カップを呷って唇を湿らせる。

「本来、この恩恵を一番受けられるのはその土地に暮らす者だろうに、あまりに有益だったために支配者に狙われ、その権利を奪われてしまった。最高の嗜好品。神の食物だよ」

また一口。罪すらも味わっているようなステュアートに、マイケルは言葉をなくす。

「アステカ文明では不老長寿の薬とされ、また婚儀で交わす聖なる飲み物ともされていた。それを金儲けの手段にしてしまったわけだからね。硬貨の代替として使えなくなったのは、栽培が盛んになったことで希少価値が無くなり値崩れを起こしたせいだろうけれど、痛手を受けた投資家たちは天罰と思ったかもしれないね。そして、カカオ栽培を生活の糧にしていた農民や奴隷は、投資家たちを恨むことしかできない」

手元に目を落としたマイケルは、注がれた液体がどす黒い血に見えて思わずカップを退けた。
その真っ青な顔色に気づいたステュアートが、安心させるようにニコリと微笑む。

「天罰なんて世迷言だよ。原因があって結果がある。ただそれだけのこと。因果応報なんて言葉が使える事象は一握りだ。出された飲み物をどうしようと、君の自由だよ。ああ、でも、君が口をつけたソレを売ったら、いいお金になりそうだね」

まるで買い手に心当たりでもあるかのような本気としかとれない声音に、マイケルは思わずカップを引き寄せた。しかし、話を聞く前のように味わえるとも思えず固まっていると、マイケルの心情を読んだようにステュアートが優しい口調でつけ足す。

「そのカカオはフェアトレードされたモノだから、心置きなくお飲みなさい。それに、奴隷関係のあったその地域も、近年チョコレート裁判が行われてからは、少しは改善されたそうだし。……そもそも人身売買はカカオに限ったことではないしね」

世界に格差のある限り、弱肉強食の動きは止まらない。その因果は巡り巡ってすべての人に禍福をもたらすが、格差も過ぎれば禍のみとなり、犠牲者は憎悪とともにネズミ算式に増えて戦が勃発し、豊かな知恵が地球の恵みごと消失する。

マイケルが飲み物を口にしたのを見て、ステュアートはフッと微笑んだ。

「チョコラトールの意味は苦い水。けれど現地で飲まれていたソレは本当に苦いだけだったのか、僕は甚だ疑問なんだ。健康維持という理由だけで飲まれていたにしては、王の一日の摂取量がとても多かったからね。カカオを使った飲み物のバリエーションは幅広かったのではないかなと僕は予想している」

「コーヒーみたいに? でもあの時代の糖分なんて、蜂蜜ぐらいしか思い当たらないけど」

「選択肢は多かったと思うよ。たとえば、当時からすでに現地で作られていたテキーラ。あれは竜舌蘭から抽出した糖分を発酵して蒸留したものなんだ。それを発酵ではなく煮つめれば、アガベシロップになる。そして彼らは蜜の採れる竜舌蘭を神の植物と呼んで神聖視していた。カカオと同じくね。ま、僕の想像は必要ないか。唐辛子ととうもろこしの粉を入れて飲まれていたというのが有力説としてあるのだし。ともかく、苦い飲み物を甘くするなどの味の改良を始め、スペインの支配下にあり流通の窓口となったフランダースは、チョコレートの虜となった。ベルギーに有名なチョコレート専門店が多い理由の一つだね」

「フランダース……。ガイ・フォークスも飲んだかな?」
「どうだろうね。そういう記述はまだ目にしたことはないけれど、時期的にみれば口にしていたとしてもおかしくはないね」

説明してから席を立ったステュアートは、色とりどりの小瓶が並ぶ戸棚の引き出しから何かを取り出すと、満足そうに頷いて戻ってきた。テーブルに置かれた握りこぶしほどの小箱に、若干引き気味のままマイケルは首を傾げて尋ねる。

「これは?」

どうぞと示され、見た目は宝石でも入っていそうなビロードの箱を手に取りおそるおそる開ける。そこには二粒のダイヤモンド型のチョコレートが並んで鎮座していた。

「有名なショコラティエが手がけたチョコレートだよ。これを使ってごらん」

呪われた宝石とかじゃなくてよかったと思った矢先の意味深なアドバイスに、マイケルは言葉の指す意味を図り損ねる。

「どうして?」

「僕に相談に来たのだろう? これが僕の解答。ただ、そういう雰囲気を作らないと媚薬の効果はないよ。今、君が体験しているように、ただの美味しいお菓子になってしまう。食物繊維が豊富だから、便通が良くなったとかの効能はあるけどね」

飲んでいるときにその単語は聞きたくなかった。
顔をしかめ、それからあることに気づいて別の意味で眉を顰める。

(相談したっけ?)

用件は正しいけれど、それを言う前に彼の独壇場で話が延々と続いて今に至っていたような。


 ――――妖しい雰囲気を作りあげ、媚薬となりえるチョコレートを二人で食べて仲を深める。


それがステュアートの解答で、それはヒューとの距離を縮めたい、できれば独占したいと願う自分の望みに適ったもので、だからコレはきっと僕が受け取るべきものなのだろう。
パンク寸前の頭でなんとか話を整頓したマイケルは、目の前でニコニコと様子を伺っているステュアートに問いかけた。

「いくらするの?」

「お金は要らないよ」
「物々交換?」

問い返しに、ステュアートは楽しげに身を乗り出す。

「無料は怖いかい? それなら使うときの条件を設定させてもらおうかな」

指摘どおり彼からの施しが怖くて申し出たのだが、できれば後腐れなくお金で解決して欲しかった。「条件」とぼやくマイケルの戸惑いに、ステュアートはクスクス笑う。

「君は映画や舞台を見るときお金を払うだろう? それと同じことだよ。それよりも高度な娯楽かもしれないね。間接的にでも物語に関われるのだから」

柔らかな口調と温和な雰囲気でごまかされそうだが、彼の意図するものは悪魔の取引に近い。
はっきりいって悪趣味だ。でも、どこかで楽しんでいる自分もいる。

「どういう条件?」

今なら返品も可能だろうし、条件次第では考えてもいい。
無理やり自分を納得させるも警戒があからさまのマイケルに、ステュアートは前振りもなくいきなり長い指先で前髪を梳(す)いた。ビクリと身を引くマイケルに、彼は条件を提示する。

「コレを使うときは、ドレスを着ること」
「ドレスを?」

きょとんとして単語を繰り返したマイケルは、一拍おいて目を瞠いた。
ステュアートは視線だけを動かし、壁にかかったカレンダーのメモ欄を見る。

「昨日、君の衣装担当が採寸しただろう。おそらく十二月の後半にもなれば、ドレスの一着ぐらいは仕上がっているはずだよ」

ステュアートの指摘に、マイケルは愕然として真意を探る。

劇で使用……つまり、大勢の前で着用するドレスでアレをしろと彼は言っているのだ。

それは、春祭が終わるまで行動に移すのは待ったほうがいいという助言だろうか。
それとも、見せつける覚悟で行かないと彼は手に入らないという心構えだろうか?

「汚したり破けたりする可能性を考えて欲しいんだけど?」

言外に他の条件にして欲しいと匂わすと、ステュアートはチロリと舌なめずりをするような淫蕩な眼差しを向けてきた。

「ずいぶんと激しいね」
「経験者ならわかるんじゃない?」
「経験者だからこその感想だったのだけれどね。倒錯的なほうが盛りあがるよ。試してごらん」

マイケルの指す経験は性交までの意味だったのだが、返ってきたステュアートの思わぬ答えにグッと言葉をつまらせた。女装癖はないと本人の口から聞いていたのにうっかり目の前の人物でドレス姿を想像してしまい、顔を引きつらせる。モデルのような八頭身に、少したれ目の甘い面立ち。すでに青年に分類される広い肩幅と余分な脂肪がない引き締まった体型は逆三角形、加えて一八〇センチを超えた長身では、特殊な技法を施さない限り到底女性には見えない。
いや、でも、化粧次第では意外にアリなのだろうか……。

「経験者?」

おそるおそる確認したマイケルに、表情を読んだステュアートはニコリと微笑んだ。

「もちろん着たのは相手の子だよ」

彼の返答に安堵しつつも、この無害そうな笑みこそ曲者だと知ってしまったマイケルには、どうしても胡散臭く見えた。

 

        *

 

マイキという足枷から解放して以降、ヒューは問題解決に向けて一心不乱に活動しているようだった。捜索範囲を寮内から学園内に広げて、当事者である二人以外の仲間と力を合わせて着々と情報を集めている。憶測でしかないけれど、ファンクラブはけっこう大きな組織に変貌を遂げたようだ。さすがはベルジュ。その一言で納得してしまえる存在感もすごい。そんな神様ばりの存在と張り合うヒューは無謀に見えるけど、その負けん気の強さは好きだ。

「フォーダムが女に平手打ちされた?」

小春日和の昼下がり。混雑するカフェテラスで軽食を取っていると、向かいに座るジョンが思い出したようにその話題を出した。左手で自分の頬を軽く叩いてみせながら、詳細を話す。

「そ、泥棒猫って、バチンと。先週あたりからフォーダムの周囲にシェイクスピア寮の奇人が出没してただろ。そいつの婚約者だってハナシ。今一番旬な話題。なんでもダルトンの従妹とかで、上が必死に噂の火消しに動いてるよ。本当、フォーダムの周囲は話題に事欠かないよな」

完全な傍観者の水を得た魚のような生き生きとした顔に、マイケルは白けて食べかけのサンドウィッチにかぶりついた。モクモク咀嚼していると額に視線を感じて、鬱陶しさに目を上げる。案の定、寂びしんぼのワンコの目をしたジョンを見つけ、マイケルは仕方なく相手をした。

「別に興味ない」
「そうか? 波乱万丈と青春、どっちの言葉が似合うかなとか考えるとそれなりに楽しい気が」
「楽しくない。ジョン、最近ステュアートと感性が似てきたんじゃない」

マイケルの指摘にジョンが思いっ切り嫌そうな顔をしたとき、第三者の声が割り込んできた。

「おや、それは嬉しいね」

ニョキっとジョンの肩から大きな手がはえ、そのままグンっと伸びた腕は、ジョンの肩にぐるりと巻きついた。「ぎゃっ」と叫んだジョンの顔は、変顔コンテストの上位者なみに見物だ。

「なんでここにいるっ、――ですかっ?」

驚きのあまりに敬語を忘れかけて、それでも言い直すくらいには落ち着きを取り戻したジョンに、お気に入りで遊ぶことを大好物としているハタ迷惑な上級生は、ニッコリと微笑んだ。

「君がいるからだよ」

耳元で素早く切り返された殺し文句に、ジョンがカチンと石になる。無反応となったジョンに、首を傾げたステュアートはもう片方の掌でひょいひょいと目の前を通過させてから、仕方なさそうに中腰だった身体を起こした。名残惜しげにジョンから手を遠ざける。

「そこまで虐めた覚えはないのだけれどね。ほらジョン、撤回してあげるから戻っておいで」

テーブルに片手をついてジョンを覗き込むステュアートの言葉に、マイケルはハッとする。

「つまり、用事は僕にあるってこと?」

ステュアートと話すのは、あの夜の取引以来だ。机の引き出しの奥にしまいこんでいるチョコレートを思い出して緊張感を漂わせたマイケルに、ステュアートはいつもの態度で答える。

「そう、朗報だよ。ベルジュのファンクラブによる悪事が明るみに出たんだ。そのことから寮則の改定が認められて、相談相手の指名ができなくなった」

とても喜ばしいことだというようにステュアートは話すが、なぜそれが自分にとっての朗報なのかがわからない。眉間に皺を寄せるマイケルに、ステュアートは苦笑して要点を伝えた。


「アダムスの気がかりが解消されたんだ。君のもとに帰ってくるよ」


心臓が高鳴る。ヒューが帰ってくる。嬉しい。嬉しいハズだ。待っていた。待ち遠しかった。
でも、なんだろう……このもやもやとした感じ。片想いのときにはなかった。恐れ。何が?

 

「帰る……逃げてくるじゃなくて?」

 

衝動的な問いだった。口から零れでた言葉に驚愕するマイケルに、何かを察したステュアートは瞬きをしてから口を開いた。これ以上怯えさせないように、静かにそっと問いかける。

「マイケルは、聖母マリアとマグダラのマリア、どちらを身近に感じる?」

突拍子もない問いかけにマイケルは顔を上げた。ステュアートは言葉を変えて繰り返す。

「触れてはいけない崇拝対象と、触れて愛する存在。どちらが近くにいると思う?」

普段は甘さを演出するたれ目が、じっとマイケルを見つめて答えを待つ。

ヒューにとってのマリア。そう考えるなら、マリアに例えられたのが誰かというのは明白だ。

心の浮気と身体の浮気、どちらが許せないかという問いを思い出す。両方嫌だと断言してわがままと友人に笑われた自分は遠い過去だ。ヒューを好きになったとき、心の浮気は仕方ないと妥協した。どちらが近いかなんて、ヒューに心を奪われている今のマイケルにはわからない。


「フォーダムが聖母で、僕が娼婦だといいたいの?」

「アダムス限定でね。怒るかい?」

 

「……だから、帰ってくる」

 

触れられるのは自分だけ。気まぐれに愛し、甘えられる都合のいい存在は自分だけ。だから。

「マイケル、形あるものに想いが募れば触れたくなるのが人情だとは思わないかい。心と体は一対なんだ。だから、その逆もありだとは思わないかい?」

ジョンを人形のごとくむぎゅーっと抱きしめたステュアートに、マイケルは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。目を白黒させるジョンのヘン顔が面白すぎたというのもあるけれど、ステュアートの発想がマイケルにとって目から鱗だったのだ。


「触れれば触れるほど、愛着がわく?」

「そういうこと」


「あの、オレ使って説明するの、やめてくれません?」
「これ以上わかりやすい例えもないと思うのだけれどね」

マイケルは思わず笑った。久しぶりに、笑った。

 

 

(序章から2章まで)

 

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