パブリック・スクールはもともと中産階級以上の裕福な家の子弟が通う学校であった。
それゆえ、学校の設備も公立校とは比べ物にならないほど充実している。
セント・ラファエロもご他聞にもれず、貴族の邸宅を利用した校舎やバロック様式の図書館、
しばしばホテル並みと称されるほど設備の整った寮など、すばらしい環境を誇っている。
しかし、実は、たった一つだけ欠けているものがあった。
夏にはとても重要な、あれが。
「あつ〜〜〜」
だれかが呻いた談話室。
部屋にいる生徒たちはまるで陸に打ち上げられたマグロかトドのようだ。
まだ初夏と呼べる時期なのだが、例年にない猛暑が続き、部屋の中は温室のような暑さだった。
「なんで今年はこんなに暑いんだ?」
うんざりした表情でシャツのボタンを外したのはウラジーミル。
同じソファに離れて座り、同じくうんざりした顔で律儀に応えたのはパスカルだった。
「いつもは温度は上がってもこんなに蒸さないんだけどね。
海流の関係か、偏西風の影響か……ここって、けっこう海から近いんだよね。
それで湿度が高いのかもしれない」
「海、か。いっそ泳ぎに行ったら涼しいかな」
「おお、涼しいぜ〜♪」
グチャッ、ビシャッと派手な足音を鳴らしながらテイラーが部屋に入ってきた。
音の正体はなんだろうと彼に目をやった生徒たちは息を呑んだ。
全身ずぶぬれだ!
「うわ、ついに英国にもゴジラが上陸しちゃったよ」
ぽたぽた垂れる水が床に水溜りを作るのをじろりとにらみ、ラントンが顔をしかめた。
しかし、テイラーは動じる様子もなく上機嫌だ。
「あんまり暑いんで、湖にドボーンとダイブしちまった。楽しかったぜ! 濡れてると、なんか涼しいしな」
「ああ、それは気化熱冷却だね。液体が蒸発するときに周囲の熱を奪うので……」
ケストナーが物理のおさらいをしていると、廊下からグレイの怒鳴り声が聞こえてきた。
かんかんに怒っている。
「こら! 寮の廊下を水びたしにしたのは誰だ!?」
「やばっ!」
猪首をすくめ、テイラーは濡れた靴を脱いで手に持ち、どこに逃げようかときょろきょろあたりを見回した。
が、遅かった。
「お前か、マーク・テイラー!」
全身ずぶ濡れでは言い逃れのしようがない。
テイラーは階段と廊下の水拭きを命じられ、やれやれと肩を落とした。
背中を丸めて出て行った大きな後姿を励ますように見送り、ユウリは隣に座るシモンに尋ねた。
「そういえば、この学校って冷房設備はないのかな?」
シモンは軽く頷いた。
「英国は元々それほど暑くないからね。一般家庭どころかホテルでもクーラーのないところがあるよ」
「えっ、ホテルでも?」
目を丸くしたユウリを見て、シモンはちらっと微笑んだ。
「日本の夏はいつも蒸し暑いから、クーラーのない生活なんて想像できないかい?」
「うん。だって夏は車や列車にもクーラーが入っているんだよ?
でも、昔はクーラーなんてなかったから、日本人は暑さをしのぐ工夫をいろいろしてきたんだって」
「……そ、それだ……っ!!」
そう叫んだのは打ち上げられたトドの一匹、もといルパートだ。
ソファに突いた手に力を入れ、よろよろと身を起こす。
「目には目を、暑さには暑さをって言うじゃないか。
暑い国の知恵を取り入れれば、必ずやこの暑さも追い払えるに違いない…!」
かくして、ヴィクトリア寮では
ユウリ直伝「日本に学べ暑さ対策、地球温暖化にゃ負けねェぜ!」作戦が展開することとなった。
◆その1 キュウリ
「キュウリを食べると体が冷えるって聞いたことがある……んだけど……」
夕食の席で、ユウリは目の前の緑色の物体を見てあっけにとられ、次いで口をつぐんでしまった。
今夜のメニューは、ずばりcucumber、まるごとキュウリがごろっと一本。
究極のメニューである。
「これに塩をかけて食えってか?」
良家のお坊ちゃまたちには見たこともないサバイバルメニューだったらしいが、
チャレンジ精神旺盛なお年頃は果敢にキュウリにかぶりつき、しかめっ面をしながら、もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐと噛み続けた。
もぐもぐもぐもぐ…………英国のキュウリは日本のものと異なり、太くて水分がぐんと少ない。
寮生たちは寡黙にキュウリと戦い、水を補給しながらひたすら噛み続けた。
始めたからには征服せずにはいられない。体が冷えるというよりは、顎の筋肉を傷めた者が多数であった。
◆その2 打ち水
「建物の周りに水を撒くと涼しい……んだけど……」
ユウリは寮の前に立って建物を見上げた。
高い。
大きい。
窓が少ない。
――がっくりと首を落とした。
「無理だよ、これは」
その3 うちわ
「すごく簡単な扇なんだ」
「へー、円を切って穴を空けるだけ?」
厚紙を円の形にくりぬき、さらに小さい円をくりぬくと、手頃な大きさの団扇になる。
平面だからノートにも挟めておけるし、いつでも手軽にあおげるとあって、団扇はたちまち生徒の間に広まった。
そのうち、他人とは違う団扇を作ろうと、凝った模様を描いたり色を塗ったりする者が出始めた。
繰りぬいた小さい穴に指を入れ、フラフープのように指でぐるぐる回して遊ぶ者も現れた。
ある夜、セイヤーズは窓の外で動くものが見えた気がした。気になって窓の外を覗き、ぎょっとした。
(よ、妖精!?)
ぼんやりと怪しく光る、丸いものがくるくる回っていたのだ。
セイヤーズはあわててカーテンをしゃっと閉めた。
しかし、妖精などという非現実的な物かと思ってしまった自分が悔しくて、勇気を出して恐る恐る窓から外を覗いた。
「な、なんだ……」
正体がわかって、ほっとした。
大流行中の団扇に蛍光塗料を塗って夜に外で回している者たちがいたのだ。
ほっとすると同時に、ばかげた行動をとっている者への怒りが湧いてきた。
窓をがらっと開けて怒鳴る。
「オスカー! こんな時間に何やってんだ!?」
「ああ? リッキーの奴が、こうやってみんなで回したら宇宙人が来るかもしれないって言い出してさ」
おもしろそうだからやっているんだと説明したオスカーの飄々とした姿に、セイヤーズはますます腹をたてた。
「お前もやる?」
暢気に誘うオスカーへの返事は、ぴしゃっと閉められた窓だった。
オスカーはふっと笑って、肩をすくめた。
◆その4 風鈴
「風鈴の音には『1/fゆらぎ』とかいう音が含まれていて、脳にα波が発生してリラックス効果があるんだって」
これはインターネットで調べた知識である。
ルパートはネット画像を元に風鈴を作ってみたが、
材料が台所からくすねた調理用ボウルやバケツだったせいか、
試しに鳴らしてみたらものすごい音が出た。
すわ強盗か非常ベルかと舎監まで飛んでくる始末なので断念・・・残念!
「いやはや、日本人の知恵って奥が深いね」
「……そういうシモンには、何か知恵があるの?」
どこかおもしろそうに言うシモンを、ユウリは少し恨めしげに見た。
相変わらず暑くてぼうっとしそうなのに、貴公子は一人だけ涼しげな様子をしているのだ。
すると、シモンはいたずらっぽく笑って後ろを向き、首の上の髪をかき上げた。
首筋に白い絆創膏のようなものが貼ってある。
「あ、冷却シート?」
「当たり。これは日本製だよ」
高分子ゲルのジェルを不織布に貼り合わせた冷却シートは、日本では一般的に知られているが、英国ではあまり出回っていない。
「首は動脈やリンパ管が皮膚の近くを通っているから、首筋を冷やすというのは理にかなっているんだ。
これを夏の暑さ対策にも使っているのは、いいアイデアだね」
暑さには閉口するけれど、夏の暑さには、ちょっとだけわくわくする要素が潜んでいるかもしれないと、ユウリは思った。
暑くなれば、やってくるもの―――それは夏休み。
開放的な毎日。今年は何をしようかと、あれこれ考えるのも楽しい。家族に会えるのも楽しみだ。
――――隣を歩いている、涼しい顔をした友人としばらく会えなくなるのは寂しいけれども。
終