楽に寄せて
 
 
―――新幹部のイメージ曲だって?」
わずかに眉根を寄せ、シモンは今聞いたばかりの会話の中から気になる単語を拾い出して問い直した。
 
ここは、セント・ラファエロ・パブリックスクールのヴィクトリア寮内にある上級生専用の談話室である。
学校は近づいてきた試験に向けての準備期間に入り、
学習室や図書室はにわかに学習熱にとりつかれた生徒であふれている。
教師や監督生がいくら普段からの備えが大切だと説いたところで、スポーツや趣味など、
やりたいことの多い生徒達はせっぱつまらないと学習意欲のエンジンがかからない者も多い。
上級監督生のパスカルやウラジーミルはあちこちからひっぱりだこだった。
ユウリは寮監督生ではあるが、試験に不慣れな下級生の世話をしているうちに、教え方が丁寧で優しいと人気を呼び、
次から次へと相談に押し寄せる下級生の相手でいささか疲れ気味になっていたところに、
「少し息をつかないか」と親友のシモンが誘いに来てくれたという次第であった。
談話室では、誘った側のシモンが手ずから紅茶を煎れる。
ステンレスの小さなポットにティーバッグを入れて湯を注ぐだけだが、その優雅な手つきを見ていると、
あまり高級とは言い難い寮の備品の茶器も高級そうに見えてくるから不思議だ。
 
 
「セ・ショー(熱いよ)」とフランス語で注意されながら手渡されたカップを、ユウリは感謝しながら受け取った。
ミルクティーの柔らかな香気が鼻腔をくすぐり、ユウリはほっと肩の力が抜けるような心地よさを感じた。
そして、向かいのソファに座ったシモンに先ほどの問いの答えを返す。
「そう。下級生の話では、誰にどんな曲が合うかという話が盛り上がっているんだって。」
試験勉強はどうしたと、シモンは溜め息をつきたい気持ちを抑えながら、さらに尋ねる。
「言い出したのは誰?」
「きっかけはグレイだって。
 自治会の総会にBGMがどうのこうのと言い出したらしいよ。」
――――全く」
今度はシモンも溜め息が漏れるのを押さえられなかった。
軽く脱力してソファに深くもたれかかると、意見を述べる。
「総会は演劇でもスポーツの試合でもない。音楽が必要だとは思えないね。
 むしろ、演出過剰だと他寮の失笑を買うだけだろうさ。」
「そう? でも、君のイメージ曲はすんなり決まってしまったよ。」
ユウリはどこかうれしそうに告げる。
「僕の?」
軽く首をかしげたシモンに対して、ユウリは力強くうなずき、こぶしを握って力説する。
 
「サン=サーンスの『交響曲第三番 “オルガン付き”』!
神々しくて、華やかでかっこよくて美しくてノーブルで
まさにシモンのイメージ! って思ったんだ」
 
熱のこもった口調や表情から、選曲したのは下級生ではなくユウリなのだと知れたが、
そんなユウリの様子をシモンは苦笑しながらも、ほほえましく見ていた。
もっとも、自分のイメージ曲と言われるにはこそばゆいものがある。
サン=サーンスの交響曲3番はオーケストラにピアノとパイプオルガンを加えた大編成で演奏される曲である。
楽想はドラマチックで、音色は華やかな、派手な曲という印象がある。
名曲ではあるのだが・・・
 
「“オルガン付き”ねぇ。ご大層な選曲じゃないか。」
皮肉な声が割って入ったのは、そのときだった。
声の主は談話室の戸口に肩を預け、軽く腕を組んで内部をながめている。
ユウリは思わずといったように声をあげた。
「アシュレイ!」
和やかな空気は新しい登場人物によって一掃され、シモンは心の中で舌打ちした。
談話室ではなく、自分たちの部屋にいればよかったと苦々しく思ったが、既に時は遅し。
アシュレイはズボンのポケットに手を突っ込み、肩の力をぬいた様子でぶらりと談話室に足を踏み入れていた。
シモンは、軽くため息をつきながら声をかける。
「あなたの曲はさしずめ『メフィスト・ワルツ』あたりでしょうか?」
するとアシュレイは皮肉な笑みを深くして応酬する。
「せめてベルリオーズの『幻想交響曲』くらい挙げてほしいものだな。」
シモンは肩をすくめ、辛らつに切り返す。
「なるほど。阿片におぼれて昏睡状態のまま見る奇怪な幻想、断頭台への行進曲やら
悪魔会議の夜の夢……なかなかの選曲です。」
「オーケストラにピアノ、パイプオルガン、派手で大じかけで勿体ぶったとこが、実にお似合いだよ、お貴族様。」
アシュレイは、やや芝居がかった仕草で皮肉る。
シモンは目をすがめて見返した。
「『ファウストの劫罰』とか」
「『ドン・ファン』」
「『道化師』
次第に声に悪意が籠もりはじめた応酬をしている二人に、ユウリがためらいがちに声をかけた。
「あの・・・・・・マーラーの『大地の歌』なんてどうかな?」
アシュレイは興味深そうに少し目を細めて見た。その視線に後押しされたように、ユウリは続ける。
「中国の詩に西洋のメロディを合わせたところが、なんだかアシュレイっぽいなあ・・・って。ドイツ語の歌曲集ですけれど。」
「大地の歌」は、歌曲集の体裁をとっているが、実際は歌による交響曲であり、
作曲者のグスタフ・マーラーにとっては9番目の交響曲にあたる。
李太白や王維など中国の詩をドイツ語に訳したものにマーラーがつけた曲は、
中国の音階も取り入れられ、異国情緒の感じられる曲想が特徴だ。
第1曲のドラマチックなテノールの歌い出しが、シモンの脳裏をよぎる。
生と死への暗く熱い思いが満たされた盃を、乾杯するように掲げたアシュレイのイメージが思い浮かび、不快感がいや増す。
マーラーの曲の危険な響きは、なんとアシュレイに似合うのだろうか。
繰り返されるフレーズもまた、不吉な影を思わせる。 

   昏きもの、それは生
     死もまた昏し・・・・・

「フン、お前にしちゃ上出来じゃないか。」
とアシュレイがまんざらでもなさそうに言うのを聞き、シモンは我しらず口を開いていた。
「『しかるに 人間なる君、君は
百歳(ももとせ)とはゆるされぬ身で
  うつつに耽けるとも
  すべてはこの地上の儚き
  たわごとに興ずるのみ!』(深田甫訳)」
第1曲の歌詞を引用すると、アシュレイが好奇の流し目を送ってきたので、シモンはさらりとかわすことにした。
「あなたにはふさわしい詩かもしれませんね。」
「・・・・・・・・」
アシュレイは鋭い一瞥をシモンに投げかけたが、口に出しては何も言わなかった。
そのかわりユウリに向き直り、陽気な調子でからかうようにたずねた。
「で、おまえの曲はどうなんだ?」
「え、僕?」
突然矛先が変わり、話を振られたユウリは目をぱちくりさせた。
「僕は幹部じゃないし…」
アシュレイは顎に手をやると、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「そうだな・・・『小犬のワルツ』とか『子象の行進』とか……」
「な……!」
小犬よばわりされて、一瞬かっとなったユウリだが、すぐに建て直しを図って切り返した。
「ええ、どうせそんな認識でしょうよ、ぼくなんて。」
と、あえてアシュレイの方を見ないでつぶやく。
「認識だと?」
「アシュレイにとって、ぼくは小犬や子象と同じレベルってことでしょう? 別にいいですよ。どう思われていたって。」
大人びた寛容を示そうとするユウリに、アシュレイはフンと鼻をならす。
「・・・お前、ほんとに逞しくなったな。つまらん。」
「よけいなお世話です!」
今度は我慢ができずに、ユウリはアシュレイをきっとにらみつけた。その視線を受け流し、アシュレイはシモンに再び向き直る。
「なあ、お貴族サマのお見立ては? 寮長どののこいつの『認識』とやらを伺いたいものだ」
アシュレイの、意外なほど明るい声色にどんな裏があるのかと思案を巡らせつつ、シモンはにっこりとほほえんで答えた。
「そうですね。ディーリアスの曲など合うかと。」
「ディーリアス? ・・・意外と通俗的なんだな。」
アシュレイの声に、ややあきれたような色が混じる。
フレデリック・ディーリアスはドイツ系の家庭に生まれ、アメリカやドイツに渡ったあとフランスに永住した作曲家であるが、
英国では国民的作曲家として知られている。
絵画でいえば印象主義派的というのだろうか、美しく繊細な曲は英国の春の野辺を音で描いたかのようである。
悪くとらえるのならば、映画のうららかなシーンのBGMにでも使われていそうな底の浅い曲もある。
アシュレイのばかにしたような口調は、そのあたりを評価していないゆえんだろう。
シモンは、あくまでにこやかな表情を崩さすに
「『夏の夜、水上にて歌える』の一番は、ユウリのイメージに合うのでは。」
と応え、それからすいっと眼差しを鋭くして訪ねた。
「ところで、あなたの お見立ては?」
眼差しの意味をたがえるようなアシュレイではない。
先ほどの自分の問いに、やけにあっさりと答えたシモンの思惑を正確に把握し、もったいつけるかのようにゆっくりと答えた。
「 Cavalleria Rusticana  Intermezzo 」
「は?」
と、首をひねったのはユウリだ。全く聞き覚えのない曲名らしい。
アシュレイはユウリに説明するように続ける。
「『カヴァレリア・ルスティカーナ』直訳すると『田舎の騎士』ってとこか。
 一幕物のオペラだ。とある田舎町で、ひとりの女が男二人を手玉にとり、
愛憎混じり合うどろどろな三角関係のあげく、
男どもは決闘して死んでしまうっていうあらすじだ。」
 それを聞いて、ざっと水をかけられたかのように、ユウリの顔が一瞬にしてこわばる。
「・・・・・・・・それが、僕のイメージ?」
アシュレイはユウリの表情の変化を興味深そうにのぞきこむと、その顎に指をかけ、
くいと持ち上げて蠱惑的にささやきかけた。
「・・・手玉にとっているじゃないか?」
悪魔に魅入られたかのようにアシュレイの瞳を覗き込むユウリを呪縛から救ったのは、
アシュレイの指を鮮やかに払い除けたシモンの手だった。
「いい加減にしていただきましょう」
シモンはユウリをかばうかのように二人の間にわって入り、アシュレイとの間に距離を開けた。
にらみつけるシモンに動じることもなく、アシュレイは相変わらず飄々とした様子で肩をひとつすくめた。
「おっと、騎士殿の登場だ。手袋を投げられる前に退散するとしよう。」
そう言って、あっさりと部屋を出ていった。

シモンは、きゅっと唇を閉じてうつむいているユウリに向き直り、心配そうに顔をのぞき込んだ。
ユウリはあわてて笑顔を作ってみせた。
シモンはユウリの肩に手をやり、神妙な顔で謝った。
「すまない。僕は余計なことを聞いてしまった。」
「大丈夫。気にしていないよ。」
ソファに戻ったユウリは、冷めてしまったお茶を一口含んで、わずかに顔をしかめた。
シモンはその手からカップを取り上げ、新しく茶を煎れるために給湯コーナーに向かう。
シモンに二度もお茶を入れてもらうのは気が引けたのか、今度はユウリも付いていった。

なんとなく沈んでいるユウリの様子・・・シモンは、和やかな時間に毒を投げ込んでいった悪魔のような男を心中で恨んだ。
そして、言うべきかどうか少しためらったあと、切り出した。
「ユウリ、君はさっきアシュレイが言った曲を聴いたことはある?」
「カバ・・・とかいう曲? ううん、聞いたことはないよ」
「そうか」
納得がいったように、シモンはかるく頷いた。
「彼が言ったのはオペラそのものではなく、インテルメッツォ。つまり、間奏曲のことだよ」
「え?」
意外そうな顔になり、ユウリがシモンを見上げる。
「あの間奏曲は、オペラの内容とは全く関係ない。
それどころか、宗教曲のようにとても美しく敬虔な曲なんだ。
まるで人間たちの愛憎劇に疲れた心を癒すような・・・・・・」
説明しながら、シモンは以前演奏会で聴いたことのある曲を思い出していた。
 
弦の静かな出だしで始まる「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲は、
中盤からは美しさの中に力強さと温かさを兼ね備えた感動的な盛り上がりをみせる曲だ。
この曲を聴くたび、教会の穹窿(ヴォールト)天井を見上げ、音楽とともに心が天の高みへとすくい上げられるような心地を味わう。
罪に堕ちた人の心が救われるような清らかな曲がユウリのイメージだと、アシュレイは語った。
それはユウリが関わったさまざまな事件の中で苦しむ人々を救ってきたことを暗に示しているのだろうか。
認めるのは悔しいが、なかなかの選曲といえる。
 
ユウリに自分の言葉が染み通っていくのが、こわばっていた表情がほんのりとゆるむことで察せられる。
それを見て、シモンもまたほっとした気持ちになった。
「そういうことだよ。ただ、それを知らないユウリの心をあえて乱してからかうような態度は許せない。」
ユウリは、右手のこぶしを左手の平にぶつけて怒りを露わにする珍しいシモンに目を見張った。
同時に、自分を元気づけようとするシモンの気持ちを悟り、ほほえみを浮かべた。
「クラシック音楽も奥が深いね。もっと勉強しなくちゃ。」
そう言うと、シモンも機嫌を直して応じた。
「今度いっしょにコンサートにでも行こうか?」
「いいね。でも眠くなったりしないかな。」
「快く眠くなるのは、α波が出てリラックスしている証拠だよ。」


一方、二人と別れたあと、アシュレイは湖のほとりを歩いていた。
やがて湖畔に立つ木の1本にもたれかかり、陽光をはじいてきらめく湖面とその向こうに広がる雑木林の佇まいを見やりながら、
何かを思い出すかのようにつぶやいた。
「 To be sung on the water in the summer night……ねえ。」
 『夏の夜、水上にて歌える』というディーリアスの合唱曲は、
夏の夜の湖上で繰り広げられる妖精たちの輪舞を思わせるような美しく幻想的なコーラスである。
それがユウリのイメージだともらしてしまった男のことを想像すると、くっくっと笑いがこみ上げてくる。
「あいつも意外にドリーマーなんだな。」
アシュレイは身を起こすと、軽く口笛を吹きながら両手をズボンのポケットに突っ込み、林の奥の方へと足を踏み出した。

 

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