ホテルのレストランで食事中。
ため息とともに、アシュレイはデザートのトリュフチョコレートをユウリの前に押しやった。
「チョコはもういい」
なんとなく甘いものは食べないだろうなと思ったけど、
言い方にひっかかるものを感じて、ユウリは顔を上げた。
「『もういい』? まだ食べていないのに?」
アシュレイは苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「昔のことだ」
「マジかよ・・・・・・」
アシュレイは呻いた。
視界は真っ白に染め上げられていた。
スイス・アルプスの峰のひとつ、東斜面の中ほどに、アシュレイはいた。
冬山登山の最中に天候が急変し、同行者とはぐれ、吹雪の中にたったひとりで取り残されてしまったのだった。
こんなときのためにどうしたらいいか、サバイバル講習は受けてきているが、実地訓練をすることになろうとは思ってもみなかった。
(いや、わざと置いてけぼりにしたんじゃないだろうな、あのクソオヤジども)
心の中で同行者に悪態をつきながら、風の向きを避ける方向にピッケルで雪洞を堀り、中にもぐりこむ。
手足は凍え、カチカチにこわばっているが、雪洞に座り込むと、ほっとして力が抜けた。
と同時に、疲れがどっと押し寄せた。
最後に食事をしたのはいつだっただろう。
天候が変わって視界が悪くなってからは、やたらと歩き回ったりせずに安全な避難箇所を探した。
だから、はぐれた場所からそれほど離れてはいないはずだ。GPS機能付きの携帯電話も身に付けている。
アシュレイは横なぐりに吹く雪の勢いを恨めしげに見た。
この調子では、風がおさまるまでに時間がかかりそうだ。
日も暮れかけ、今日中には助けが来るはずもない。
他の者であれば、生還するのも困難な状況に身を置かれたことに不安を覚え、絶望したかもしれない。
しかし、神をも恐れぬ不敵さと豪胆さを兼ね備えるアシュレイには、冷静に状況を見極める余裕があった。
携帯電話は圏外だった。
しかし、過去と出発直前の天候データは保存してある。
それらを見ながら吹雪がおさまる時刻を予想し、手持ちの食料のカロリーを計算して配給計画を立てた。
荷物の中にチョコレートやカロリー補助食品、水などを多めに入れておいたのは、正解だった。
万が一を想定していたのだが、同行者とあっさりはぐれてしまったところをみると、訓練の一貫として、最初から仕組まれていた可能性も高い。
アシュレイは歯をくいしばった。
(こんなところで、くたばってたまるか)
どのくらい時間がすぎたのだろう。
吹雪はいっこうに止む気配をみせなかった。山の天候はデータ通りにはならなかった。
最後に食事をしたのはいつだっただろう。
天候が変わって視界が悪くなってからは、やたらと歩き回ったりせずに安全な避難箇所を探した。
だから、はぐれた場所からそれほど離れてはいないはずだ。
GPS機能付きの携帯電話も身に付けている。
アシュレイは横なぐりに吹く雪の勢いを恨めしげに見た。
この調子では、風がおさまるまでに時間がかかりそうだ。日も暮れかけ、今日中には助けが来るはずもない。
携帯電話のおかげで時間はわかるのだが、薄明かりのため、時間の感覚がおかしくなっている。
雪洞は意外に寒くはないのだが、広さは十分ではなく、ずっと同じ姿勢でいるために関節がにぶい痛みを訴えはじめた。
アシュレイは、ためいきをつくのもおっくうになり、チョコレートのかけらを一つ、口に入れた。
10グラムで約60キロカロリー。ショ糖、乳糖、脂質、ナトリウム・・・・と、成分を脳内で復習する。
糖類は吸収が早く、重さのわりにはエネルギー効率のいい食品だ。
チョコレートに含まれるテオブロミンはカフェインに似た物質で、脳を刺激する働きがあるとされている。
だからといって、こればかり口にするのは辛い。
おまけに、チョコレートは口の中でするすると溶けていく。
命を支えるものが、あっという間になくなってしまう・・・・・・じりじりするような焦りが生まれた。
(乗り越えろ)
呪文のように、繰り返す。
(こんなことで、俺は終わらない)
信仰にも似た己への確信が、アシュレイの弱った体を支え続けた。
ユウリは驚きのあまり、目を見張り手足を凍りつかせた。
カトラリーを握る手が、皿の上で止まったまま震えた。
「そんな目に遭ったんですか?」
「訓練の一つだ」
つまらないことのそうに、アシュレイは言う。ユウリはますます驚きを強めた。
生きて無事に帰還したからこそ、今こうしてアシュレイがここにいるわけだろうが、
そんな危険な目に遭ったことを「訓練」のひとことですますなんて・・・
ふと、思い当たる。
「ということは、他にもそんな危険な訓練を?」
「ああ、他にもいろいろと」
あっさり肯定したアシュレイは、何を思ったのか、ニヤリと笑いかけた。
「お前にも一つ教えてやろうか。ちなみに俺の得意技だ」
ユウリはぶるぶると首を横に振った。
「とんでもない! 遠慮します」
「遠慮することないぞ。なに、はじめは少し痛いかもしれないが―――」
ユウリは真剣に首を振った。
「お断りします。危ないことなんでしょう?」
「体術の一種だな。健康にもいい」
「へえ・・・?」
健康にいい体術と言われて、ユウリの脳裏には太極拳や少林寺拳法などのイメージがぱっと浮かんだ。
体操やストレッチみたいなものだったら、危険じゃないし、おもしろいかもしれない。
「じゃあ、やってみようかな」
興味を示しはじめたユウリに、アシュレイは上機嫌で頷いた。
「よし、決まりだ」
アシュレイの得意な術。
―――――その名を閨房術という。
<あとがき?蛇足?>
これを読んだ友人から「途中でオチが読めました」という感想をいただきました。
さもありなん・・・定番ネタで失礼しました(^_^;)