セント・ラファエロの購買部。
品物が豊富に並ぶ陳列棚の前に立つ一人のすらりとした少年の姿があった。
白く輝く金の髪、南の海のように明るい水色の瞳。
シモン・ド・ベルジュである。
英国の学校に入学したばかりのシモンは、珍しそうに棚を眺め、やがて一つの商品を手にとった。
ギリシャ彫刻のように美しく整った顔の眼差しが、手にした小ぶりの袋のパッケージに注がれた。
――フェアトレード商品
この商品の売り上げは開発途上国の生産者や労働者の生活を
保障するために役立てられます。売り上げの一部は熱帯雨林保護基金に寄付され――
「へえ、意外だなぁ」
横から聞こえた小さなつぶやきに、シモンは顔を上げた。
いつの間にか近くに立っていたルパートは気づかれるとは思わなかったらしく、
不審な顔をしたシモンを見て、慌てて笑顔を取り繕った。
「い、いや。ベルジュでも庶民のコーヒーなんて飲むのか〜と思ってさ。何かすごい高級品を取り寄せていそうだから」
すると、シモンはすっと表情を殺し、手にしていた商品を棚に返した。
「それって、逆差別だとは思わないのかい？」
言葉に潜んだ、わずかないらだち。
ルパートはすぐに己の失言を悟った。
「ごめんごめん。でも、そんなつもりで言ったんじゃないよ」
素直に謝るルパートに、シモンは軽いため息をついた。
「こちらこそ、すまない」
「ううん。ベルジュだって僕らと同じ学生なんだってわかっているんだけどね。
寮でだって、同じ食事をしているしさ。ところで、英国の食事はどう？」
やんわりと気まずい空気を一掃し、にこにこと話を違う方向にもっていくコミュニケーションの上手さに、シモンは感心した。
月日は流れ、最上級学年になったシモンは、慣れた様子で購買部の棚を物色した。
飲み物の棚をざっと眺め、箱に入った商品を手にとり、パッケージの説明を一瞬で読み取る。
その箱を持ったままレジへ向かうシモンの後ろ姿を、棚に隠れるようにして大勢の下級生たちが見守っていた。
シモンが会計をすませて購買部のドアを出ると、
まるでタイミングを計ったかのように、わらわらと下級生たちが飲み物の棚に押し寄せた。
シモンが手にとった商品に、我先にと手を伸ばし、しまいには奪い合うようにしてレジに走る。
「相変わらず、すごいな」
「すでに名物と化しているねえ」
店内に居合わせたウラジーミルとパスカルが、感心したような、呆れたような顔で
下級生たちの興奮を傍観してつぶやいた。
ヴィクトリア寮の筆頭代表であり、秀でた頭脳と美貌で学内の誰ひとりとして知らない者はないシモン。
在学中にも関わらず、すでに生ける伝説のごときシモンが飲む（であろう）ものと
同じものを飲みたいと思う下級生の心理は無理もないものであった。
パスカルは、シモンが買った飲み物の棚を見て、眼鏡の奥の目を少し細くした。
「フェアトレード商品を選んだみたいだ」
「おや、抜け目ないことで」
ウラジーミルは唇の端を上げて笑った。
一方、自分が去ったあとの購買部の騒ぎを知ってか知らずか、
シモンは箱を手にしたまま、通いなれた寮への道を辿った。
眼鏡橋をわたり、寮の階段を上り、部屋の棚に飲み物の箱をトンと置いた。
その日の夜のこと。
最上級生たちの暮らす寮の新館は、就寝時刻前の静かな時間を迎えていた。
廊下を歩く者もなく、大声でしゃべる者もいない。中にはもう疲れて寝てしまった者もいるらしい。
シモンの部屋も、静寂が支配していた。しかし、一人ではない。
ソファの背に背中を預け、軽く足を組んで座った黒髪の少年が、
先ほどから手にした本を熱心に読みふけっていた。
シモンはペンを走らせる右手を止め、伏せていた視線を上げた。
ユウリの様子を伺うと、まだ読書に熱中している。
時計を見ると、就寝時刻まであと少し。
そっと立ち上がり、部屋に備え付けられた簡単なバーカウンターに向かう。
小さなポットのお湯が沸いて保温状態になっているのを確認し、カップを二つ準備する。
昼間に購買部で買った商品を手に、説明書きの「作り方」にくまなく目を走らせる。
カップに半分ほどお湯を注ぎ、あたためてから湯を捨てる。
スプーンで箱から茶色い粉末を取り出し、カップに入れる。
もちろん量の測定には最新の注意を払い、適切な濃度になるよう厳しく見定めた。
そこにポットの湯をほんの数滴注ぎ、スプーンでだまにならないよう少しずつ粉と湯を馴染ませる。
クリームのようになめらかになったところで、お湯を注いでかきまぜる。
カップの表面にこまかな泡が立ち、ぷちぷちと弾けた。
鼻腔をくすぐる甘い香りがカップの表面から立ち上った。
シモンは、ちらりとユウリを顧みた。
ソファの肘掛に肩肘をつき、その手を頬にあて、真剣な面持ちで本に向かい合っている。
読書も佳境に入ったところなのだろうか。完全に周りの世界が消えているような、すばらしい集中力である。
そんなユウリを見ながら、シモンは穏やかなほほえみを浮かべた。
身体も心も緩やかに弛緩し、無理に力を入れているところはどこもない。
心地よくて、しぜんに浮かび上がったほほえみだった。
長い一日が終わり、疲れが溜まっているのだろう。体がほんのり熱を持っている。
後は寝るだけというリラックスしたひとときに、
ユウリを眺めながらカップの中身をくるくると回している自分というものが、なんだか少しおかしくなった。
くるくる。
くるくる。
シモンが回すカップの表面には渦ができて、茶色の液体がとろりと流れた。
ほどなく、ユウリはほうっと大きなため息をついた。
本の世界の余韻にひたるかのように、ぼんやりと目を上げる。
その顔の近くに、甘い香りのカップが寄せられた。
「ホットチョコレートはどう？」
ユウリは、はっとしたように声の方に顔を向けた。
シモンは、やわらかな笑みを浮かべてカップを差し出した。
「あ、ありがとう」
あわてたように礼を言い、ユウリは両手でカップを受け取った。ほっこりと温かかった。
吸い寄せられるように一口含み、鼻腔をしゅんとくすぐる甘い空気に、身の奥が震えた。
チョコレートはとろりとして濃厚なのに、口に含むと軽くて、ふわっと消えていく。
「おいしい・・・すごくおいしい」
体の中に甘さと温かさがじゅわんと広がった。
感激のあまり、芸のない感想しか出てこない。しかし、心からの言葉だった。
「そう？」
シモンがそっけなく応えた。何気ない様子で自分もカップに口をつける。
「シモンの淹れてくれたのは、本当においしいんだよ」
そう言っておいしそうに喉を潤すユウリを、シモンは目を細めて見た。
ユウリの素直な賞賛が耳をくすぐり、こそばゆくなった。
「そういうユウリは、褒め上手だ。やたらおだててくれたおかげで、お茶を淹れる腕が上がってしまったよ」
苦笑まじりでぼやいてみる。
ユウリは、首をひっこめるようにして肩をすくめた。
「そういうつもりで褒めたんじゃないよ？」
「いや」
軽くかぶりをふるシモン。
「嬉しいんだ。君に何かをしてあげられることが」
ユウリは驚いたように目を見張った。よほど意外だったのか、口がぽかんと開いている。
それには応えず、シモンはそ知らぬ顔を装って視線を外した。
半分ほどになったカップを覗き込む。自分で飲み物を淹れることにも、すっかり慣れてしまった。
このチョコレートも、買うことで生産者を救うことになる。
誰かのために、何かをする。
それがどういうことなのか、ユウリと過ごした日々の中でわかってきた気がする。
もう一度ユウリの方を見ると、こちらを見ていたユウリと目が合った。
澄んだ瞳は黒水晶のようで、シモンを見ると嬉しそうに細められる。
「ごちそうさま」
「どういたしまして」
心が、ふわりとなった。
＜あとがき？蛇足？＞
チョコに関するＳＳを書こうと思ったとき、シモンに関してはユウリとの間にチョコレートがある・・・という話しか思い浮かびませんでした。
いくつか考えたうち、これがいちばんほのぼの系の落ち着いた話です。あんまりラブラブなのは自主規制(^_^;)
デコチョコを作ってくださった方は社会貢献意識の高い方なので、こんなネタもありかな、と。