あの人までの距離   

       森荏

 あと7歩。

 どの角度で足を踏み出し、床を蹴り、身体を前へ運ぶか――目まぐるしく動く思考に身体の動きを寸分の違いなく合わせ、シモンは音もなく移動する。

 パリにあるベルジュ・グループの本社。

 近代的なビルの廊下を、他人が見たら不審に思うか思わないかギリギリの速さで移動したシモン・ド・ベルジュは、きっかり7歩でエレベーターまでの距離を詰め、閉まりかけた扉の中にするりと身を滑らせた。

 先客のカーディガンを肩にかけた中年女性はエレベーターに飛び込んできた無作法な若者をじろりとねめつけた。

 が、そのやぶにらみはすぐに霧散する。若者が殊勝にも頭を下げて詫びたからである。

「失礼しました」

 加えて、その美貌に女性は息をするのも忘れ、「いえ、いいのよ」とでも言うように指先を軽く振って見せただけだった。

 シモンはくるりと踵を返し、エレベーターの階表示に目を走らせた。

 数字の点滅が移り変わるのが、やけにのろく感じられる。

 大きく息を吸い、息を整える。

 地上に着くまでにあと何秒と頭の中で計算しつつ、シモンはすっくと立ち尽くした。

 

 ビルの車寄せには、すでに手配した車が待っていた。

 シモンが後部座席に乗り込んで行き先を告げるのと、スーツの胸ポケットに入れたスマートフォンが鳴るのはほぼ同時だった。

 座席の背もたれに身をゆだね、シモンはスマートフォンを取り出す。電話の相手は第一秘書のモーリスである。

「アロー?」

「シモン様、今どちらにいらっしゃいますか?」

「車に乗ったところだよ。何かトラブルでも?」

「いえ、少々予定の変更がありまして、できれば今日中に決裁していただきたい案件が生じてしまいました」

 シモンは眉間にしわを寄せた。

「明日では間に合わないのかい?」

「できれば今日中に」

「『できれば』ということは、必ずしも今日中である必要はないということだね。では明日の朝一番に」

 口早に答えて、用は済んだとばかりにスマートフォンを操作しようとしたシモンの手を、モーリスの固い声が押しとどめた。

「これからロンドンに向かわれるのですね?」

 一瞬だけ、シモンは息を止めた。相手の声音に滲む微妙な感情が気になった。

「ああ。どうして?」

「社で押さえているユーロスターの席に予約がかかりましたので」

 冷静な秘書の声に、小さなため息が漏れる。

 モーリスは優秀な人材だし、ベルジュ・グループが常時確保している席を使うからにはインターネット上で座席チェックされるのは無理のないことだ。

 だが、プライベートの時間をチェックされているようで、神経が苛立つ。

 答える声には苦いものが混じった。

「僕の居場所を知りたいのだったら、GPSで追っても構わないよ。やましいことはしていないのだから」

「明朝九時までに出社することは可能でしょうか?」

「なんだって?」

「先ほど申し上げた案件の回答期限が午前十時ですので」

「だったら、資料を僕のスマートフォンに転送してくれないか。今すぐ決裁するから」

「それは不可能です。資料に極秘コードがかかっているので、モバイルへの転送は不可になっています」

「了解。朝九時までに出社しよう」

 これで、ロンドンに一泊する案のハードルが上がったかなと、今度は少し大きなため息をついた。

 

 そもそも、ロンドンに行こうと思い立ったのはつい先ほど、午後の仕事をしている最中だった。

 ユウリのスケジュールは把握しており、今日はロンドン市内にいることも、時間に余裕があることも分かっていた。

 だから、サプライズで急に尋ね、一緒に夕食をとるのはどうかと思い立ったのだ。

 思いついた途端、脳細胞が活性化するのを感じた。なんて自分は正直なんだと苦笑がもれる。

 ユウリに会える、ユウリと過ごせると考えただけで、意欲と活力が湧き出て、仕事も効率よく終わらせることができた。

 途中、モーリスからの連絡はあったが、それもクリアできる問題だ。

 滑り込みでユーロスターに飛び乗り、座席に収まったシモンはスマートフォンを取り出した。

 搭乗手続きが簡略化されているビジネスプレミア席とはいえ、時間がギリギリだったので、まだユウリには連絡していなかったのだ。

(びっくりするだろうな。きっと、忙しいんだから無理しないでとか何とか言うだろう。

 でも、会いたいと言えば、きっとユウリは喜んでくれるだろう。その顔が見たい)

 そんなことを想像すると、知らずのうちにほほえみが浮かんでくる。

 夕食のレストランはどこにしようかと、頭の中で何軒かシミュレートする。

 数コールで、ユウリが電話に出た。

「アロー、ユウリ」

「シモン。どうしたの?」

 いつもの柔らかな声だ。

 シモンのほほえみが深くなる。

「いや、仕事が早く終わったので、ちょっとね。そっちは、どう? もう授業は終わった?」

「うん。シモンはお仕事お疲れ様。大変だね」

「まあね。ちょっと立て込んでいる。でも、ひと段落ついたので、久しぶりに夕食など一緒にどうかな?」

「えっ、これから?」

「だめかい?」

「いや、だめというか……」

 ユウリの反応は、想定通りだ。なので、畳みかけることにした。

「仕事を頑張った僕へのご褒美をもらえないかな? 君と食事をするのが、いちばんのリフレッシュになるんだけど」

 少しだけ甘えるように言ってみたのだが、ユウリの答えは予想外のものだった。

「シモン、今どこ? パリ?」

「ああ、まあ」

「今から来るの? 泊まり?」

 少しばかり雲行きが怪しいぞと思いながら、シモンは正直に答える。

「残念ながら、日帰り」

 電話の向こうで、息を飲む気配がした。シモンは慌てて言い添えた。

「大丈夫だよ。実はもうユーロ―――」

「今日はだめ」

 既に列車に乗ったのだと言う台詞に、キッパリとしたユウリの言葉が重なった。

 シモンは目を見張った。これほどキッパリと拒絶されるとは思っていなかった。

「何か、予定でも?」

「ううん。とくに予定はないよ。でも、もし僕と夕食を食べるためだけにロンドンへ来ようとしているのなら、やめてほしい」

「ユウリ……」

「シモン、自分では気づいていないかもしれないけど、こないだ会ったとき、顔色が悪かったよ。

 会えるのは嬉しいんだけど、シモンはこの頃働き過ぎだと思う。少し体を休めなくちゃ」

 思いやりのある言葉は、シモンの心にじわじわとしみ込んでいった。

 嬉しいように、むずがゆいように、胸がざわめく。

 あとは、ユウリの優しい気持ちをいかに傷つけずに申し出を覆すかが課題だ。

 シモンにとっては、実にやりがいのある課題だった。

 そこで、ことさらに優しい声で電話の向こうにいる人物に語りかけた。

「ありがとう。心配してくれて嬉しいよ。

 でも、ユーロスターの中で休めるし、一晩ぐっすり眠れば十分に回復するよ。

 そして、何度も言うようだけど、君に会えた方が僕は元気になれるんだ」

「…………」

 スマートフォンに耳を押し当て、耳をすます。

 押し黙ってしまったユウリの気配は感じられるのだが、表情が見て取れないのがもどかしい。

 おそらく、ユウリはためらっているのだろう。

 悩ませてしまって申し訳ないが、悩んでいるなら説得する余地はある。

 もう一歩、さりげなく後押ししよう。

「少しだけでもいいんだ」

「今夜はやめておこう?」

 ふたりの声が、再びきれいに重なった。

「え? 今なんて?」

「今夜はやめておこうよ」

 聞き間違いではなかった。

「僕も図書館で調べたいことがあるんだ。だから、今夜はパリでゆっくり過ごして。

 食事はまたの機会にしよう」

「ユウリ……」

「じゃあ、またね」

 取り付く島もないとは、まさにこのことだった。

 会話が長くなれば、シモンに押し切られてしまうかもしれないと思ったのだろうか。

 ユウリは穏やかな口調でシモンの身体を気遣い、やわらかな声で挨拶して、電話を切ってしまった。

 ユウリの名前が表示された通話切れの画面を、シモンは呆然と眺めてしまった。

(どうしようか、もう列車に乗ってしまったのに……!)

 スマートフォンを手にしたまま、天井を見上げる。

 それから、窓の外を見る。

 ああまでキッパリと断られたのに、未練がましくもう一度かけ直して会ってほしいなどと頼むことは、さすがにできそうになかった。

 シモンは、ぐったりと座席シートに身を沈め、腕を組んで考えこんだ。

 ふたりの生活がロンドンとパリに分かれてからも頻繁に会いに行っていることが、ユウリの負担になっているらしいことには、とっくに気づいていた。

 ユウリは何時だって「わざわざ来てもらってわるいね」と申し訳なさそうな顔をしていたけれど、会うこと自体は嬉しそうで、いつでも自分を受け入れてくれていた。

 傍から見たら異常なほどの頻度で、ユウリに会いに行ったのには、訳がある。

 ユウリがセント・ラファエロから突然消えてしまった事件。

 あのときのショックはすさまじく、今でも思い出すたびに身を切られるような辛さが蘇り、息ができなくなる。

 ユウリがいることをこの目で確認しないと、安心していられない。そんなトラウマのせいだということも、自覚していた。

(わかっていたとしても、止められなかった……)

 フランスで最高レベルにあるパリ大学の勉強は、シモンにとってすら決して生易しいものではない。

 加えて、ベルジュ家の仕事の一部を任されるようになり、社交上の付き合いも徐々に増えてきた。

 スケジュールは常に厳しく、シモン個人の秘書が付けられ、スケジュール管理や様々な手配をしてくれていなかったら、とてもこなせなかっただろう。

 それでも、ユウリが戻ってからは彼に関わる用事を最優先にして時間を作ってきた。

 夜中にジェットをとばすような無茶もして、距離的にも、他の面でも遠くなってしまった友人のためにできることは何かを模索する日々だった。

 シモンには、大きな引け目がある。

 一つは、アシュレイという膨大な知識量を持つ人間に対するコンプレックスだ。

 ユウリが足を突っ込んでいるオカルトめいた世界において、彼以上に頼りになる人間はいない。

 張り合うと思うことすら不可能だ。

 それでも、己の野心のためにはユウリを危険な目に逢わせることもいとわない彼の手の中に、ユウリを取り込まれてしまうわけにはいかない。

 味方にすればこの上なく頼もしいが、かといって全幅の信頼を寄せることはできないのだ。

 もう一つは、他ならぬユウリの属する世界である。

 失踪していた間、ユウリはいったいどこにいたのか。

 ユウリはユウリのまま変わらないはずなのに、戻ってきてから、すっかり違ってしまったように感じられる。

 いったい、彼は何者なのか―――シモンにはそれすらも見当がつかないのだ。

 シモンは、窓ガラスに映る自分の影を見た。窓の外は、どんよりとした灰色の雲が垂れ込めている。

 ガラスに映る顔は、我ながら沈んだ顔をしている。いつの間に、こんなに疲れが溜まっていたのだろうか。

 目を伏せ、下唇を噛んだ。

(それでも、会いたい)

 会えないと思うと、それだけで胸の奥がキリキリと痛くなった。

 冷静に考えれば、次に停車するリール駅で降りてパリへ戻ればいいのだ。

 そうすれば、すぐ本社に戻ってモーリスの言っていた案件をこなすこともできる。

 彼も安心するだろう。

 それからアパルトマンへ帰り、きちんと食事をとって、心地よいベッドでしっかり眠る―――

 そんなプランは、ちっとも魅力的なものには思えない。

 理性で考えれば、それがいちばんいいことはわかっているのだが。

(このところ、効率優先でスケジュールをこなしてきたから、確かにあちこちで無理が出ていたのかもしれない)

 家族や周囲の人間とも、少しギスギスしたところはなかっただろうか?

 モーリスには時間外にもだいぶ仕事をさせていまっていなかったか?

(ユウリに、会いたい)

 この、飢えにも似た渇望を満たすためだけに、いかに自分自身の全てを使い果たしてきたことか。

 そして、今、当のユウリにも会うことを拒否されて、なすすべもなくユーロスターの座席で打ちひしがれている自分はなんて惨めなのだろうと、シモンは自嘲した。

(このまま列車に乗って会いに行っても、ユウリは喜ばないだろう。

 いや、きっと悲しむだろう。ユウリに迷惑をかけてまですることではない。わかっている)

 考え込んでいる間に、次の駅が近づいてきた。あと五分ほどで停車する。

(ここで降りようか―――)

 考えつつ、社内に視線を戻したシモンの目に、近くの席に座る老女と孫らしい少女の姿がとびこんできた。

 ふたりは座席の仕切りを跳ね上げて、寄り添って座っていた。

 子どもは五歳ほどだろうか。祖母に身を預け、足は列車の振動に合わせてゆらゆらと揺れている。

 目も頬も緩み、満ち足りて、安心しきった表情だ。

 祖母らしい初老の女性は雑誌を眺めている。

 時々、子どもが話しかけ、祖母は何事か答えている。

 時折ふたりで顔を見合わせては小さくくすくす笑いあい、また前の姿勢に戻っていく。

 電車の中ではよく見られるような、ごくありふれた光景だった。

 シモンは車窓に目を転じた。

 少女の満ち足りて穏やかな表情とは対照的な、孤独な表情がガラス窓に浮かび上がる。

 胸が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。

 

 ロンドンは、雨だった。

 タクシーから降りると、霧のような雨が身体にまとわりつく。

 シモンは勝手知ったる様子で、ロンドン大学の図書館へと足を進めた。

 ラッセルスクエアにほど近い建物の上階にある図書館の入り口近くの案内図で図書の配置を確認し、ユウリが閲覧しているであろうジャンルをいくつか思い浮かべ、場所を頭に入れる。

 圧倒的な書物の林の中を歩きながら、シモンはふと、自分はいったい何をしているのだろうと不思議に思った。

 不自然に静まりかえった図書館の重々しい空気の中を、足音を立てないようにゆっくり歩く自分と、数刻前にパリのベルジュ・グループのビル内を歩数まで計算しながら駆け回っていた自分。

 かつては喜びと活力にあふれ、今は沈み切った心のまま、自分でもままならない痛みに突き動かされてとぼとぼと足を進める。

 まるで自分らしくないと自嘲する気力もななかった。

 ぴたりと、足を止めた。

 見つけた。ユウリだ。

 シモンが立っているところからは、ユウリの涼しげな横顔がよく見えた。

 向こうからは本棚の陰になるので、振り返ってまじまじと見なければ、おそらく気づかないだろう。

 ユウリは、書架のそばの閲覧机に本を数冊積み重ね、ページを開いた本に目を走らせていた。

 ページを繰り、また忙しく目を走らせる。知りたい情報が書いてある箇所を懸命に探しているようだった。

 シモンは、書架の陰に立ち、本と棚の隙間からユウリをそっと透かし見た。

 まじめな顔つきで、本に指を走らせながら読み込んでいる。

 どうやら、目指す情報が見つかったようである。

 ぶつぶつと口の中で何かを確認するようにつぶやき、それから顎に手を当てて考え込んだ。

 その指がつと動き、開いた下唇をゆっくりとなぞる。

 シモンは目を伏せた。

 足元が見える。

 湿った靴が目に入る。

 靴はぴくりとも動かない。

 それでいい、と思った。

(今日は、声はかけない。姿も見せない。)

 それで十分だと思った。

 ユウリの姿を見ただけで、今まで乾いてカラカラだった心が潤いと色彩を取り戻した。

 ユウリの髪は室内灯の弱い光にしっとりと輝き、本に集中している目は黒曜石のように漆黒だ。

 象牙の肌の中で、ほんのり色づいている唇は、今日は自分の名前を呼ぶことはないだろう。

 しかし、こうしてユウリのいる同じ世界に立っていることを感じるだけで、シモンはほっとして、安らぎを感じるのだった。

(この執着は、断ち切らない)

 シモンは目を細めた。先ほどまで漠然と感じていた不安定な心の揺らぎは、いつしか収まっていた。

 自分はいかにユウリに依存して生きていたのか、痛いほどわかった。

 ユウリに依存し、ユウリがいないと不安で堪らなくなる、この情けなさ。

 彼を失ったと絶望した記憶の傷は生々しく、まだ癒えていない。

 それゆえに、執着してしまう己の弱さを、シモンは憎みつつ、苦しみつつ、鷲掴みにして、しがみつくほかはなかった。

(この手は離さない。でも、それだけじゃだめだ)

 ユウリを守るためには、もっと強くならなければならなかった。

 こんなに簡単に揺れ動き、また、満たされてしまうようでは未熟極まりない。

(君に迷惑はかけないし、君のいる、生きている空間を守るためなら何でもしよう)

 前かがみになったユウリは、左手で落ちかかる前髪をうるさそうにかきあげた。

 右手で鉛筆を持ち、本から何やら写して書いている。

 シモンは目を細め、口元にほほえみを浮かべた。

 そして、音も立てずにそっと踵を返した。

 

 翌朝。

 シモン・ド・ベルジュの第一秘書モーリス・ブリュワは、ベルジュ・グループの本社に出社した。

 部屋に入る前に立ち止まり、曲がってもいないネクタイを引っ張ってしまったのは、気合を入れるためだ。

 彼が仕える年下の上司は、このところ仕事をおろそかにしている……わけではないのだが、軸が定まらない点がモーリスとしては気になるところであった。

(べつに、まだ学生なんだし、ビジネスに本腰を入れてほしいと思うわけじゃないけどなあ)

 少しばかりもやもやした思いを、ネクタイをピンとさせることで振り払い、モーリスは部屋のドアを開けた。

「やあ、おはよう」

「……っ、おはようございます!」

 部屋にいたのは、シモンだった。ふだんよりもだいぶ早く出社したらしい。

 既にデスクに向かい、パソコンを開いてキーボード操作をしていた。

 モーリスの姿を見ると手を止め、机上の書類を開いて見せた。書類の数か所に付箋紙が貼ってある。

「昨日の帰り際に言われた書類を確認したよ。それで、何か所か確認したいところがあるのだけれど」

「は、はい。どこでしょうか」

 モーリスは弾んだ声で返事を返し、シモンのデスクに歩み寄った。

 シモンが付箋をつけておいた部分は、まさにモーリスが気になっていた箇所だった。

 このスピード、この切れ味!

(やはりシモン様は、こうでなくては!)

 鋭さを取り戻した上司の姿に、ポーカーフェイスの内心でほほえんだモーリスであった。

 

 その日も、シモンのスケジュールは分刻みの忙しさだった。

 昨夜は早めにロンドンから戻り、今朝は早めに出社してモーリスが伝えた案件を片付けた。

 そのあと学校に行き授業を受け、カフェテリアで課題の本を読みながら食事を詰め込み、午後遅くにはまたベルジュ社に出社して別なプロジェクトの会議に出席した。

 夜は社交の付き合いで顔を出さなくてはならない小さなパーティがあり、パリの別宅に戻る暇がなくて会社でスーツを着替え、慌ただしく出かけていった。

 パーティを失礼にならない程度まで付き合って退席し、帰宅してシャワーを浴びたころには時計の針がてっぺんを回っていた。

 シモンは、濡れた髪をタオルでごしごし拭き、目覚ましをいつもより少し早めに設定し直した。

 課題が残っているが、一日の疲れが溜まっていたのでこれから手をつける気にはなれなかった。

 それよりは、寝起きのスッキリした頭で取り組んだ方が、効率もよさそうである。

 ベッドに腰を下ろし、スマートフォンのメールを確認する。

 日中も何度か確認しているが、ユウリから来たメールをもう一度、じっくりと読む。

 挨拶の言葉や、体調を気遣う言葉。

 今日の予定やちょっとしたことなど、読んでいると文字が躍り出し、ユウリの声が耳元で聞こえるような錯覚がして、シモンは頭を振った。

(強くなろう)

 下唇を噛みしめる。

(大丈夫。離れていても、僕は立っていられる)

 スマートフォンの画面を消し、ベッドに横になった。

(今なら修道僧の気持ちがわかるかもしれないな)

 厳しい戒律に身も心もゆだね、俗世間の快楽も断ち切って、しんと静かな信仰の世界だけに生きる修道僧の心の静けさを思った。

 ひんやりとした枕やシーツの冷気が、シモンの暖かい身体にじんわりと染みとおる。

 冷たく、静かで、心が揺れ動かない、硬い信仰を守る修道士。

 この冷たい静寂が今の自分には必要なのだろうとシモンは思い、目を閉じた。

 

「我慢のしすぎは、身体に悪いんじゃないの?」

 アンリが視線を上げずに言う。シモンも白と黒の市松模様の盤から目を上げず、反射的に問い直した。

「何が?」

「何がって」

 アンリは白のルークを動かし、黒のポーンを取った。

「日曜の朝から、なんで兄弟で健全にチェスなんてやってるのかなあってこと」

「たまにはいいじゃないか」

 シモンは黒のキングを動かし、ルークを取った。動かしたとたん「あ」と気付く。すかさず、アンリはクイーンを動かした。

「はいチェックメイト、と」

「しまった」

 シモンは顔をしかめ、前髪を梳きあげた。アンリは笑ってコーヒーのカップを手に取った。

 明るい陽が差し込むパリの邸宅のサンルーム。

 チェス盤を挟んで向かい合っていた兄弟のうち、ゲームに負けた兄は人差し指を立てた。

「もう一局。もう一局だけやらないか?」

 アンリは呆れたように笑って、かぶりを振った。

「珍しく暇なら、さっさとロンドンに行けばいいのに」

 シモンは聞こえないふりをして、もう一度チェスのコマを盤上に並べ直した。

「お前は僕に、ロアールの城に帰れとは言わないんだな」

 アンリはひょいと肩をすくめた。

「そんなことを言って、兄さんに『一緒に帰ろう』ってにっこりほほえまれたら断れなくなるからさ。

 勘弁して。今日は友達と約束があるんだ。そろそろ出かけるよ。兄さんは?」

「そうだな。今日は課題を片付けるよ。そのためにロワールに帰らなかったのだし」

「……そう?」

 多くは語らず、アンリはコーヒーを飲みほしてソファから立ち上がった。

 シモンはチェス盤を片付け、窓から空を見上げた。

 からりと晴れた青空が広がる、いい天気になりそうな朝だった。

 こんな気持ちのいい日の予定が勉強だけというのは、いささか悲しいものがあるが、仕方がない。

 シモンはためいきをつき、重い腰を上げた。

 そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。いつもなら使用人が取り次ぐのだが、今日は日曜だ。

 シモンはドアモニターの画面を操作した。画面を見て、指が止まる。

 映っていたのは―――

 シモンは玄関へ駆け出した。段差に躓きそうになり、身体がかしいだ。

 すぐに身体を立て直し、少し気を付けて歩き出した。

 ドアを開けて、客を迎え入れる。そこに立っていた人物は、シモンを見て、はにかみがちなほほえみを浮かべた。

「おはよう、シモン」

「やあ、おはよう、ユウリ」

 シモンは驚きを隠せなかった。

 約束もしていないのに、ユウリの方からふらりとやってくるのは初めてのことだったからだ。

 ユウリも慣れない様子で、どこか態度がぎくしゃくしている。

「急に来てごめん。今、大丈夫?」

「ああ、もちろんだよ。驚いた。どうしてパリへ?」

 ユウリは小さなカバン一つで、短めのコートにズボンという軽装である。

 シモンはユウリを手招きして家の中へ招き入れた。

「理由を言ったら……呆れない?」

「そうだね。ことと次第によっては呆れるけど、どうしたんだい?」

 ユウリは、ためらいがちにうつむいた。

 唇をきゅっと引き結び、頬を赤らめる。

 やがて、決心したようにひとつ頷き、上目遣いになってちらりとシモンを見た。

「君に、会いたくなって」

「え?」

 シモンの中で、何かがくしゅっと崩れ落ちた。

「ただそれだけ」

 ユウリはぶっきらぼうに言うと、シモンを見上げ、照れくさそうに笑ってみせた。

 甘くとろりとしたリキュールを包んだボンボンの糖衣を噛みしめたようだった。

 胸が急に高鳴り、どくどくと音を立てて甘い甘い血潮が身体の隅々へと流れだす。

「…………」

 シモンは無言でユウリの身体に手を伸ばし、そっと腕の中に収めた。

 頬を合わせてキスし、泣きそうな顔になって、そっとほほえんだ。

 ユウリもくしゃっと顔を歪め、シモンの胸に少し乱暴に頭を押し付けた。

 シモンはユウリの背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。

 知らずのうちに、あの日の列車の中であった少女のように満ち足りた笑みを浮かべていたことに、シモンは気づいていなかった。

                           

                                         終

たかち様、リクエストありがとうございました!

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