countdown 2

 

 
 
 
再会したあと、二人はしばらく黙って花火を見ていた。
次々と夜空を切り裂いていく花火の光の軌跡は美しいけれど、すぐに儚く消えていく。
それを思うと、先ほどまでの激情がまだ体の中にくすぶっているユウリは、シモンの手を握る手にぎゅっと力が入ってしまうのだった。
シモンはユウリの手をそっと握り返してささやきかけた。
「そろそろホテルに戻ろうか。」
 
二人はにぎわいの続く街の通りを、手をつないだままゆっくりと歩いていった。
街角では数名の若者が爆竹に火を付けて、パンパンと威勢のいい音に気分を高揚させ、奇声を上げている。
爆竹の火薬くさい煙が漂ってきて、ユウリは少し顔をしかめた。
「ユウリ。」
やわらかく注意を促すシモンの声といっしょに手を引かれる。ユウリが彼を見上げて
「どうしたの?」
と問えば、シモンは空いている方の手でユウリの足下を示した。
「ガラスの破片が落ちている。気を付けて。」
慌てて足下を見ると、もう少しで割れたワインの瓶を踏みそうになっていて、ユウリは足がすくんでしまった。
「うわ・・・なんだか怖いね。」
ユウリが言うと、いつもよりも気弱そうな声が気になったのか、シモンはますますユウリの体を引き寄せて、腰に手をまわしてきた。
この体勢はさすがにどうかと、ユウリはわずかに抵抗したが、シモンは柔らかくほほえむことでその抵抗を封じてしまった。

仕方がないと力をぬき、ユウリはシモンに身を預けながら歩くことにした。
 
間近に身を寄せていると、それまで目で見ただけでは気づかなかったことが感じられた。

たとえば、ユウリの背中と腰に回されたシモンの腕は、さりげなくエスコートしているように見えて、実は動きがほんの少しぎくしゃくしていた。

力が入ってしまうのを無理に抜こうとしているかのように、妙にこわばっているのだ。よ

く見ると、シモンは歩きながら鋭い視線を投げかけて、四方に目配りをしている。
シモンもさきほどの事件にショックを受けているのだろう。

無理もない。

今までに何度もユウリの危機に居合わせたシモンだが、何度も経験しているからといって慣れるものではなく、むしろ心配の度合いが増してしまったようである。

そのことを考えると、ユウリは申し訳ないやら自分が情けないやらで、気分がずしりと沈み込んでしまう。
(シモンのためを考えるんだったら、本当は距離を置いた方がいいのは、わかっている。

 隆聖だって、何度も警告してくれた。それなのに、この手を離せないというのは、僕のわがままなんだろうな。)
二人で並んで歩くトゥールの町は、厳しい寒気と闇に包まれていた。

どっしりとした石造りの建物が並ぶ通りを、広場や川辺のにぎわいに背を向けて歩いていると、次第に人影もまばらになってくる。

気分まで暗くなってしまいそうなので、ユウリはなるべく明るい声で話しかけた。
「シモン。」
「なんだい?」
「なんだか、ちょっと危ない感じがするね。」
「街の様子が? それとも、この格好がかい?」
ちょっとふざけて応えたシモンに、ユウリはくすっと笑ってしまった。
「街の様子が、だよ。爆竹の火薬の臭いに、あの音、そして割れた瓶の破片・・・まるで戦場のような雰囲気だ。」
「確かに刺激的だね。日本とは違う?」
「日本の大晦日は、とても静かだよ。静かに、歳神様をお迎えするんだ。」
「トシガミ?」
「ああ、それはね・・・・・・」
いつもの学校でのやりとりと変わらない調子の会話は、次第にユウリの気分を落ちつかせていった。
腰に回された手には、他では感じることのできない安心感がある。

この手があれば、自分はここにいられるのだという確かさが、今のユウリにはかけがえのないものだった。
やっとたどり着いたホテルは、真夜中にもかかわらずロビーに灯りがともり、フロントには数名の従業員がいた。

バンケットホールからさざめくような人の声と音楽が聞こえたので目をやると、
「年越しパーティを開いているんですよ」
と、まだ若い従業員は少しうらやましそうな顔で教えてくれた。
 
部屋のドアを開けたが、古い歴史を持つホテルの部屋の電灯は自動ではつかず、スイッチを探して足を踏み出したユウリは何かに足をとられてよろけてしまった。
「っと・・・!」
バランスを崩したユウリの腕を引き寄せたのはシモンで、ユウリの体はすっぽりとシモンの腕の中に囲われてしまった。

二人のうしろで、ドアが独りでに閉まった。
「ありがとう、シモン」
礼を言って身を離そうとしたが、シモンの腕はゆるがない。

身長差があるので、シモンの胸に頭を押しつけられたユウリは、鼓動が耳朶を激しく打つのに驚かされた。

無言で彼を抱きしめるシモンの腕の力の強さに、言葉にはならないシモンの思いが表れたような気がして、いたたまれない思いがこみ上げてきた。
「シモン・・・・」
ほとんど囁きだけで名前を呼ぶと、身じろぎしたシモンは、抱きしめた腕の力を少しだけ弱くした。

ユウリはそのことに力を得て、密着した体を少し離そうと肩をずらした。

すると、シモンの手がユウリの頬をいたわるように包んだ。

暖かな呼気を感じたかと思うと、何かが唇をかすめていった。

一瞬のことだった。
部屋の照明がつくと、皓々とした部屋がまぶしくて、ユウリは思わず目をしばたいてしまった。

重かった空気は払拭され、目の前にはシモンが、いつもとまるで変わらない様子で立っていた。
(・・・何だったんだろう、今のは・・・。)
目をこすりながらぼうっとしていると、シモンは有無を言わさずユウリをバスルームに押し込んだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     
「体が冷えただろうから、お湯を溜めてゆっくりつかるんだよ」
そう言いつけるのも忘れずに。
 
言われた通りに、ユウリが浴槽で暖まって部屋に戻ると、シモンは携帯電話で誰かに指示を出しているようだった。

パジャマの上に上質のナイトガウンを羽織っており、髪の毛が濡れているところを見ると、シモンはシャワーを浴びたあとらしい。
ホテルのスイートルームは、今彼らがいるリビングの他に寝室が二つ付いており、バスルームの他にシャワールームも別な部屋に付いている。

シモンはそちらを使ったらしい。
(自分は浴槽につからなかったんだ。)
そんなことにまで気を遣ってもらっているのかと思うと、ユウリは申し訳なくなってしまう。

それに、あれほど準備をして楽しみにしていたカウントダウンもあんなふうになってしまったし、本当はもっと夜遅くまで街にいるはずだったのに・・・

やがて、電話を終えたシモンが声をかけてくる。
「疲れただろう。今夜はゆっくり休んで、明日はちょっと遅くに出発しよう。」
「うん・・・」
「じゃあ、お休み」
そう言って頬にキスをしたシモンが離れようとするのを、ユウリはとっさに引き留めていた。
「シモン、もうちょっといい? ちょっと話をしたいんだけど・・・眠くない?」
シモンはわずかに目を見開くと、
「もちろん、かまわないよ。」
と即答し、いたずらっぽい調子でほほえんで付け加えた。
「それに、実はこんなものも用意したんだ。試してみる?」
シモンが用意したものは、一本のシャンパンだった。

ベルジュ家で所有しているメゾンで作られたもので、ラベルにはキラキラした文字で、過ぎたばかりの年の数字が印刷してある。
「去年はいいヴィンテージだったそうだよ。」
と言いながら、シモンは細身のフルートグラスにシャンパンを半分ほど注いで、ユウリに手渡した。

薄い金色の透き通った液体の中を、細かな泡がさあっと立ち上っていく様が美しい。
新年おめでとう(ボンヌ・アネー)
「あけましておめでとう」
とグラスを掲げて乾杯し、グラスを傾ける。口の中で細かな泡がはじけた。
葡萄の出来がいい年にしか作られないというヴィンテージ・シャンパンは香りと味がぐんと濃くて、

ユウリは喉元から立ち上る炭酸の爽快さと濃縮された葡萄のエッセンスの調和に陶然となった。
二人は向かい合ったソファに腰をかけ、たわいもない話を始めた。

今までに新年パーティでこんな出来事があったとシモンが話せば、ユウリは日本の正月の儀式などを思いだしながら語り、

二つの国の新年を迎える行事の違いに驚きあったりした。 
やがて夜も深まり、ふと会話がとぎれた。
シャンパンがくれた微かな酔いと暖かな部屋に眠気を誘われつつも、ユウリは二人の間にはいつもは感じられない重い空気の層があることを察していた。

目には見えないけれど、触れたら凍傷にかかりそうな冷気があり、そこから顔を背けているためにかえって冷気を意識してしまうようなものが・・・。
やがて、シモンは手元のグラスの中にわずかに残った泡を見つめながら、ぽつりと話しはじめた。
「さっきのは、怖かったよ・・・。」
静かな、感情を押し殺した声だったが、ユウリの胸をざわつかせるのには十分だった。
きたか、と思った。眠気はさっと霧散した。
「心底、怖かった。」
「・・・・・ごめん」
いよいよ話が本題に入ったという気がした。

今まで触れずに、あえて禁忌にしてきた心の中の扉が開き、ユウリは胸が痛いものでじわじわと満たされてくるのを感じていた。
一方シモンは、何か辛いものを吐き出すかのように、片手を胸に軽く当てながら、しかし口調はやわらかく、告白を続けた。
「僕が考えられることやできることは、すべて手配したつもりだった。

 でも、君はガードの目も届かない、GPSでも探せないところにいた。

 これほどまでしても君を失うことがあるんだと、目の前で見せられて・・・怖かったよ。」
それから、自分の言葉に辛そうな表情になったユウリをいたわるように、声に力をこめて言葉を重ねた。
「だから、君を見つけたときは、どんなに嬉しかったかわからない。体中の血が沸き立つような思いがしたよ。本当に・・・よかった。」
穏やかな声で「よかった」と告げられても、シモンの告白はユウリの心に暗い影を落とした。

先ほどまで自分でも感じていた恐怖を、シモンにまで味わわせてしまったことを本人の口からも確かめて、体に震えが走った。
グラスをテーブルの上に戻し、ユウリは神妙に頭を下げた。
「ごめん・・・心配をかけて。」
うつむいて、奥歯をぎゅっとかみしめ、喉元までせり上がってきた暗い言葉を飲み込んだ。
もうそろそろ限界がきている。
このままでいいのかと普段から思っていたこと、でも口に出せないでいたことが、ぽろりと口からこぼれ出てしまいそうになる。

ユウリは歯を食いしばることでそれをせき止めた。
シモンは、うつむいて落ち込んでいるように見えるユウリをいたわるように言葉をかけた。
「間違えないでほしい。君を責めているのじゃないよ。」
ユウリは、ゆるくかぶりを振った。慰めの言葉を素直に受け入れる心境ではなかったのだ。
そんな様子を見てとり、シモンはグラスを置いて立ち上がった。

ユウリが腰をおろすソファのとなりに腰をおろすと、ユウリの肩をぽんと軽くたたいて話し始めた。
「言葉が悪かったようだ。僕が言いたかったのは『よかった』ということ。君が、ここに戻ってきてくれて、嬉しい。
 
 逆説的な言い方になってしまうけれど・・・・・何かが起きるたびに、君がどんなに大切な人間かということを思い知らされるよ。」
シモンは固まっているユウリの心をほぐそうと言葉を重ねる。

しかし、ユウリには返す言葉が思い浮かばない。
「それに、君の持つ不思議な力は、君のせいじゃないのだから、謝ることはない。

 それに、変な言い方だけれど、これまでに起きた出来事のおかげで、多少の耐性はついている。

 あのときに比べれば・・・・・・」
 
ユウリはどきりとして顔を上げた。

聞いてはいけないと思いながらも、確かめずにはいられない。

口が動くのが止められなかった。
「あのときって・・・?」
シモンは少し眉を寄せて自分の失言を悔やむ表情を見せたが、すぐに表情を切り替えて、何ともなさそうな声で答えた。
「そうだね。いろいろあるよ。雷に打たれたり木から落ちたりとか」
うそだ・・・! 
ユウリにはすぐにわかった。シモンがユウリを傷つけまいと言葉を選んでくれたことも。

だが、その気遣いがかえって重く感じられ、もの言いたげな視線でシモンをじっと見つめていると、シモンも観念したように告白した。
「――――風呂場で倒れた君の心臓が停止していたときとか・・・・」
と語り始めるが、言葉をどう続けたらいいのかと、続く言葉を吟味しているように押し黙ってしまった。
「――――――っ!」
それを見て、ユウリにはもはや我慢していることができなくなった。

一度大きく息を吸うと、戸惑う胸の内とは裏腹に、思いの外はっきりとした声で告げた。
「もう僕たちは離れた方がいいのかもしれない。」
 
 ガシャン!!!
 
何の音か、一瞬わからずに、一瞬遅れて、それが陶器や金属が混じり合って壊れる、たくさんの物音だと気付く。
そして、険しい顔をしたシモンが、振りおろした手をそのままにして固まってさえいなければ、何があったのかもわからなかっただろう。

テーブルの上にあったシャンパンがクーラーごと床になぎ払われている。
「それだけは赦さない」
声は、まだ穏やかだった。しかし、シモンから発せられる気がぴりぴりと肌に突き刺さるようだ。
怖い。
彼が全身全霊で自分に向きあっていることに、ユウリは魂の底から震えるような感覚を味わった。
自分の言葉が、どんなにかシモンの心を傷つけたであろうことは、言ったユウリがいちばんよくわかっていた。

だから今まで言うことができなかったのだ。

でももう、ユウリは告げてしまった。無理にでも次の言葉へと進むしかない。
ユウリは、勇気をふりしぼりシモンに向かい合った。これだけはどうしても言わねばならない。
「シモンにはずっと迷惑をかけたり、巻き込んだりしてしまった。本当にありがとう。

 シモンがいてくれたから、僕は今ここにいられる。……ありがとう。」
心をこめて伝えた言葉に、シモンはきっぱりと首を横にふった。
「やめてくれないか。礼を言われる筋合いはない。」
ユウリはこくんとひとつ頷いた。
「うん、シモンは優しいから僕が困っているのを見過ごしにできなかったのだと思う。

 でも、またあんなことが起きるかもしれない。シモンに迷惑をかけてしまうのは、もう厭なんだ。」
「迷惑?」
さも意外そうに眉を上げて、シモンはなおも説得するような強い調子で語りかけた。
「いいかい、ユウリ、君が一人で苦しんでいるときに、僕が何も知らずに離れたところでにこにこ笑っているようなことになったら、僕は自分が赦せない。」
「赦せないって・・・」
ユウリは、シモンの真剣な表情に気圧されながら、なんとか踏み止まろうとした。
「ああ、僕は心の狭い人間だ。何も、世界中の人間が幸せじゃなければ自分も幸せじゃないなんて言うつもりはない。

 でも君だけは守りたい。ユウリ、一人で悩まないで。一人で苦しまないで。」
畳みかけるような言葉に、シモンの思いがストレートに伝わってくる。
だからこそ、自分もがんばって言わなくてはならない。
「・・・巻き込みたくないんだ・・・わかってほしい。万が一にでも、君を・・・」
言葉を遮るようにかぶりをふるシモン。
「今更、だよ。違うかい?」
ユウリは大きな絶望の波に襲われた。
どう説明すればシモンにわかってもらえるのだろうか。この恐ろしさと、シモンを守りたいという気持ちを。
心の底に隠しておいた気持ちをさらけ出すのは怖かった。

泣くような気持ちで、やっと言葉を紡いだ。
「なんだか………とても厭な予感がするんだ。何なのかは、まるでわからないけど。

 何か、とても厭な、大きな事件が迫ってきているような予感がする。こわい……すごく怖い。」
おそるおそるシモンを見上げて告白する。
「でも、いちばんこわいことは、シモンをそれに巻き込んでしまうかもしれないということなんだ。」
おびえた瞳で見つめられ、シモンはわずかに息を飲んだ。
「僕がいたら、邪魔かい?」
ユウリは迷う。唇をきゅっと引き結んで、硬い表情で頷く。

シモンは少し低めの声で尋ねた。
「あの男ならいいとでも?」
心臓が一瞬凍ったようだった。
ユウリのパジャマの襟元からのぞく銀の鎖をシモンは引き出して、アンクを玩ぶ。
抗議するように伸ばされたユウリの手を封じて、シモンは低い声で淡々と続けた。
「これは、アシュレイが与えたものだね。こんなにはっきりとした絆がアシュレイとの間にはあるのに・・・・・・ユウリ。

 君は・・・ぼくではなく、彼をとるのかい。」
問いかけというより確認するかのようなシモンの言葉に、ユウリは雷に打たれたような衝撃を感じた。

心の中では「違う」と「そうだ」がせめぎ合いをしている。
頭ではわかる。自分が今しようとしていることは、まさにそれだ。

自分は、シモンの手をふりほどいて、アシュレイの手をとろうとしている。

そこにはおそらく、アシュレイならば傷つかないだろうと考える冷静な観察と、彼の持つ知識がほしいという打算が働いているのだろう。
そのことにも気づいてショックを受けた。で

も、決してシモンは役に立たないということではない。

彼がそばに立っていてくれたら、どんなに心強いことだろう。
そばにいて、ほしい。
それは心からの願いだ。
シモンの存在をかけがえのないものだと思ったのは、つい先ほどのこと。

でも、それだからこそ、万が一にでもシモンを傷つけたくはない。
ユウリは、荒れ狂う心に無理やり蓋をして、シモンを見た。

白皙の美貌には怒りもいらだちもなく、ただ真剣な表情が窺えるだけだ。
ここまで自分を案じてくれる人を………守りたい。
ユウリは、シモンの目を見つめながら、こくりと頷いた。
シモンはわずかに目を細め
「そう。」
と、言った。
ユウリはそっと瞼を閉じた。
眦からひと筋の涙が零れ落ちた。 


 








シモンはユウリの肩に手を回して引き寄せると、ぽんぽんと背中を軽くたたいた。

そしてため息をつき、あきれたような、困ったような声で言った。
「バカだね。君の考えそうなことは大体分かるよ。―――僕を守ろうとしているのだね。

 こんなに体をこわばらせて、怖がっているのに。」
シモンは少し身を離して、ユウリの両肩に手をかけ、静かな、しかし、しっかりした声で語りかけた。
「僕は君のそばにいる。たとえ何がおきても。」
それは、誓いの言葉だった。

ユウリが何を言ってもきかないという堅い意志表明でもあった。彼

の水色の瞳は明るく、おびえも恐れも驕りもない。

強い信念を秘めた瞳を見ていると、どんよりとした雨雲で覆われていた空が晴れてくるような爽快感が湧いてきた。
ユウリは、信じられない思いで目を見張った。

自分があれほど必死に言ったことが覆っている。

しかも、それが嬉しいなんて、どうしたことだろう。
ユウリは、ぼろぼろに砕けそうな意思をかき集めて、もう一度口にした。 
「シモンを巻き込みたくない。」
「僕を守れる自信がないから?」
グサリときた。その通りだ。もし危機に陥ったとき、シモンを守る自信が自分にあれば、ためらったりはしない。
(力がほしい。)
――――ユウリは思った。
(シモンを護れる力が……!)
 
「君は、君がすべきことをすればいい。したいと思うことをすればいい。

 僕もそうする。僕は、君のそばにいる。」
ユウリの心は揺れていた。ぐらっとくるセリフだ。でも言葉を受け入れるにはためらいが残る。
「シモンには、守るべきものが他にあるでしょう?」
家族や会社、一族・・・・歴史と伝統のある家の跡継ぎであることを、シモンはつねに忘れるはずはないが。
「たしかに、僕に課せられたものを守るべき立場にいることは自覚しているし、投げ出すつもりはない。

 ただ、それよりもユウリが大切だ。

 もっと冷たい言い方をしようか。

『ユウリを大切にする自分が好きだ。ユウリを大切にしない自分は好きになれない』

 つまりね、自分のためでもあるんだよ。」
膠着した雰囲気を動かそうとでもしたのか、シモンはつと立ち上がって窓口に寄り、窓を開けて冷たく新鮮な空気を招き入れた。
「カウントダウンをして、二人で新しい年を迎えたかった。」
振り返って手をさしのべ、目線でユウリを誘う。

ユウリはそばに引き寄せられるように歩み寄り、シモンのわきに立った。
「ぼくは、君のそばにいる。今年も。」
ほほえんで告げるシモン。
ユウリの中に、熱く、荒れ狂う嵐のような思いが襲いかかってきた。

いまだかつてない、憤りのようなもの。

―――自分の運命のようなものに対する不安や恐れ、苦しさ、逃れたいという思い。

しかし自分にはその熱量と同じほどに愛しいもの、大切なものがあるという思いが、次に押し寄せてきた。

不安も恐れも覆いつくしてしまう温かい思いが。
じっとしていられずに、ユウリはシモンにつかみかかり、胸に頭を打ち付け、ぎゅっと抱きついた。

その子どものようなしぐさを見て、シモンはなぜか嬉しそうに、声高らかに宣言した。
「3回言ったよ!」
「……だから何!?」
照れ隠しのせいか、ユウリの声は大きくなった。
「『時と場所を違えて3度口にした誓いは、守らなければならない』、ハムレットの講義で教わった。ハムレットは父王の亡霊に復讐を3回誓ったんだ。」
いきなり「ハムレット」の話を持ち出した意図がわからずに、ユウリが身を離すと、シモンは笑みを浮かべて見つめ返した。
「僕はもっと違うことを誓いたい。」
(ああ、もう全く、かなわない・・・!)
こわばっていた心が緩み、ユウリの顔にも小さな笑みが浮かんだ。

それを見たシモンがますます笑みを深くしたので、ユウリはシモンの肩に手をかけてその唇に軽くキスをした。

驚いたシモンが目を丸くするのを見て、ユウリもようやく声をたてて笑うことができたのだった。
 




 
    *   *   *





 
翌日、ベルジュ家の城に戻ったシモンは、アンリの部屋を訪れた。
「夕べは世話になったね。ありがとう。」
憔悴しきった顔でソファにぐったりと身を投げ出していたアンリは、シモンの姿を見るとにわかに飛び起きてくってかかった。
「ようやく帰ってきましたね。」
そして眉間に深い皺を刻んだ顔できっぱりと告げた。
「兄さんの代理はもう二度とごめんですから!」
シモンは苦笑を浮かべ、黙って肩をすくめた。
アンリの恨み節は尚も続く。
「向こう十年分の社交を夕べ一晩でやりましたよ。

 百年分のお愛想を振りまいて、僕の余生はもうネタ切れです。

 気力も元気も使い果たしましたよ。

 なのに兄さんときたら、まあすっきりした顔しちゃって! 

 さぞや楽しい思いをしてきたんでしょうね〜。」
アンリの恨みがましい視線にも全く動じることなく、シモンはにっこりとほほえんだ。
「できない人間にははなから頼まないよ。」
「はい?」
「それに、『甘いマスクと楽しいおしゃべり、ダンスも上手くて最高〜!』と、ご令嬢たちに大人気だったそうじゃないか。よかったな。」
「ちょ、ちょっと待って。何のことです?」
「これからも頼んだよ。お疲れさま。」
「兄さんっ!」
 
なんですか、その意味ありげな視線は〜〜っというアンリの叫びを振り切って、シモンは部屋を後にしたのだった。
 
 
 
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